補足説明


 ショウジョウバエの翅におけるDpp(Decapentaplegic)とWg(Wingless)は、モルフォゲンと呼ばれる分泌性タンパク質である。モルフォゲンは、未分化の組織塊の限られた領域で産生されて組織全体に拡散し、その濃度勾配が組織に最初の極性を与え、各細胞に適切な位置情報をもたらすと考えられている物質である。モルフォゲンは永年のあいだ仮想上の物質であったが、1988年、ショウジョウバエの多核性胞胚(細胞膜がなく、多数の核が細胞質を共有している胚)における転写翻訳調節因子ビコイドが、胚の前方から後方へ濃度勾配を作るモルフォゲンであることが初めて示された。ビコイドの発見者であるドイツの女性科学者Nusslein-Volhardには、1995年、ノーベル医学生理学賞が贈られている。
 モルフォゲンの候補となる数々の物質がその後相次いで発見されたが、ショウジョウバエの翅の発生時には、DppとWgがモルフォゲンとなっていることが、1996年から1997年にかけて報告された。翅におけるDppとWgの産生場所は、それぞれ翅の原基の中央を通る1本のベルト状の領域であり、両者は翅の原基の中央で直交している。この直交するモルフォゲンの勾配が協調的に働いて翅の近遠軸(体の中心から外側に向かう座標軸)を作る、というのが現在最も有力な翅形成における仮説である。
 我々は、ショウジョウバエの翅の発生時において、ストレス性刺激の細胞内シグナル伝達にあずかる分子p38が、Dppのシグナル伝達をも強化していることを見い出し、今年初めに報告した。その結果を踏まえた上で、p38とは類似の構造を持ち、やはりストレス性刺激のシグナル伝達にあずかる分子JNKについても、同様にDppのシグナル伝達経路を強化できるのではないか、と考えていた。ところが実験を進めた結果、JNKはDppシグナル伝達に強く関係していながらも、その様式はp38とは全く異なるものであることが判明した。すなわち、JNKはDppシグナルの強度自体を修飾することはなく、細胞が受けるDppシグナルが強すぎた時、または弱すぎた時に活性化されてくることがわかった。さらにその活性化は、Dppシグナル単独の強度によって決まってくるのではなく、Wgシグナル強度との和によって決められていた。従って、JNKはDppとWgの和によってもたらされる近遠軸位置情報が乱された時に活性化すると言える。さらに、その活性化の意義は、DppあるいはWgに対する細胞の反応を変化させることではなく、間違った強度のシグナル、すなわち間違った近遠軸位置情報を受け取った細胞に死(アポトーシス:細胞が自ら死を選択する現象)を運命づけることであった。JNKシグナル伝達経路の突然変異体を用いてJNKを活性化させなかった場合、この細胞は生き残り、個体はより重篤な形態異常を見せた。従ってJNKの役割は、異常細胞を殺して組織を正常方向へ修復することにあると解釈される。
 この結果は思いがけず重要な知見をもたらした。最近、特に哺乳類の培養細胞において、JNKが細胞死を導くという多くの報告がなされていたが、それはあくまで生体の外、シャーレの中の培養細胞での話で、実際の生体内では必ずしもそのような結果は示されず、JNKが担う細胞死制御の役割には疑問が残されていた。しかし今回、様々なショウジョウバエ突然変異体を用いて示した我々の結果は、JNKが発生上の細胞死制御で必須の役割を果たしていることを明確に証明した。特に、正常な位置情報が乱れた時のみに反応するという性質は、従来知られていたJNKの非常時応答性の機能---ストレス性刺激のシグナル伝達---と極めて折り合いが良い。しかしながら、我々の別の実験結果は、JNKが必ずしも全ての非常時応答性の細胞死を制御している訳ではないことも示した。JNKは、DppとWgによる近遠軸位置情報の乱れを初めとした、いくつかの限られたシグナルに特異的に応答して、細胞死を導いていると考えられる。Dpp、Wg、JNKなど、今回の研究に用いられた全ての分子は、極めて類似の分子(ホモログ)がヒトを初めとした高等動物にも存在し、類似の機能を果たしていることが知られている。したがって、今回の我々の研究成果を踏まえ、哺乳類生体内でも同様な細胞死制御機構が存在しているかどうか、今後遠くないうちに検証されるであろう。


This page updated on July 8, 1999

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