研究最前線

細胞の分子ネットワークの情報処理の仕組みを解明

コンピューターで未知の反応の予測が可能に
顔写真 黒田 真也
(くろだ しんや)
(東京大学大学院情報理工学系研究科・理学部生物情報科学学部教育特別プログラム 特任助教授)
戦略的創造研究推進事業(さきがけタイプ)
研究領域「協調と制御」研究者
 東京大学大学院の黒田真也特任助教授らは細胞の分子ネットワークの情報処理の仕組みを解明して高精度のシミュレーションモデルを作成、それを用いて細胞内の分子ネットワークが増殖因子の投与速度と最終濃度をそれぞれ別の情報と認識して、細胞の増殖と分化を制御していることを予測し、実験で確認しました。コンピューターシミュレーションで細胞外の刺激の速度と濃度情報が別々に処理されていることを予測し、実験により実証したのは世界で初めてです。このように細胞反応を予測出来るコンピューターシミュレーションは、将来の新しい治療薬の開発の効率化などに役立つと期待されています。
ねらいと背景
細胞活性化を司る情報は何か、そこが知りたい
 黒田助教授らが研究したのは、「PC12」という細胞です。この細胞は、ラットの副腎髄質由来の褐色細胞腫で、神経細胞分化のモデルとして古くから使われてきました。神経成長因子(NGF)を作用させると、細胞のERK(「アーク」と読みます)というシグナル伝達分子が持続的に活性化され、神経細胞のように樹状突起を伸ばします。また、上皮増殖因子(EGF)を作用させるとERKは一過的に活性化され、増殖が進むことが知られています。
 このように、PC12という細胞にNGFまたはEGFという増殖因子を作用させると、細胞内のERK分子が一過的に、あるいは持続的に活性化され、前の場合は細胞が増殖し、後の場合は細胞が分化するということ自体は、以前から分かっていました。
 しかし、このようにパターンの異なるE R Kの活性化が作用させる因子のどんな情報で引き起こされるかは、分かっていませんでした。
 もちろん、この課題の解明努力がされていなかったわけではありません。細胞のシグナル伝達分子のような複雑な分子ネットワークの情報処理を全体として理解するコンピューターシミュレーションは、これまでにも試みられています。しかし、これまでのシミュレーションモデルでは、「分子ネットワークの回路を構成する部品の一部が不明だったり、シミュレーションのパラメーター(濃度と速度定数)が実験ごとにバラバラだったりして、精度の高い結果が得られなかったのです」(黒田助教授)。
内容と特徴
因果関係をシミュレーションで予測
 黒田助教授は、「我々の成果には2つの側面が考えられます」と話を続けます。一つは、学問的成果で、ERKの一過性の活性化、つまり、PC12細胞の増殖はEGFやNGFを与える速度が関係(与える速度が遅くなると反応しなくなる)し、持続性の活性化はNGFの最終濃度に関係(与える速度には無関係)することが分かったことです。説明図(下の図)で言うなら、これまでは細胞に与える因子の時間と濃度の関係は、右側の上の図のように思われていたのですが、実際は中段の2つの図が示すような2つの情報が統合された下段の図のようである、と因果関係をはっきりさせたわけです。
細胞の反応の情報処理の仕組み
−増殖因子の速度と濃度を別々に処理−
細胞の反応の情報処理の仕組み

 もう一つは、こんな未知の因果関係をコンピューターシミュレーションで予測したことです。これは、実用的にも意味ある出来事です。これまでは、精度が粗くて出来なかった分子ネットワークの反応予測を可能にした点が重要です。これまでに報告された実験結果からコンピューターシミュレーションのモデルを作り、PC12細胞にEGFとNGFを様々な濃度で与え、その結果のフィードバックを繰り返して予測可能なところまで精度を高めました。
 黒田助教授は、「コンピューターシミュレーションのモデル作りはさほど難しくありません。既に幾つかモデルがありますから。シミュレーションの精度を高めるのに苦労しましたが、一口に言えばデータを数多く集めました。天気予報の精度を高めるには観測点を増やさなければならないのと同じです。その意味では当たり前のことをしただけです」と語っています。
展望
さらに細胞全体の反応予測を・・・

 黒田助教授は、「今回、PC12細胞のERKの増殖と分化を司るのは外部からの刺激因子の投与速度と最終濃度であることが分かりましたが、ERKの一過性と持続性にどのように絡んでいるかは、まだ分かっていません。これが次に取り組まなければならないテーマです」と言っています。
 さらに「PC12細胞のERKのような例は、きっと他にもあると思います。我々のやり方は簡単で、何か新しい特別の道具が要るわけではありませんから、似たような他の分子ネットワークの解明にも応用出来ると思います」と見ています。
 今回の研究のシュミレーションモデルは、細胞の一部の働きだけを対象にしたものですが、今後、統合的なモデルが作られて細胞全体の反応をコンピューターシミュレーションで予測可能になれば、新しい治療薬の狙い所としての分子選択や、その効果の事前予測などが可能になり、新薬開発の効率化などに役立つものと期待されます。

研究者のコメント
 「こういう方面の研究者で我々のようにコンピューターシミュレーションのモデル作りと実験の両方を同時にされている方は少ないようです。私は医学部出身ですが、細胞のシグナル伝達の研究を10年ほど行ってから、JSTのERATOの川人光男先生のプロジェクトに参加して、計算論を勉強出来たのが幸いしています。思い切って新しい分野に飛び込むことができたのもひとえに周りの人のサポートによるものです。今度の研究で細胞に作用する因子を与える速度(単位時間当たりの量)の違いで現象を説明出来ることが分かりました。こうした例が他にもないか調べたいと思っています」
黒田助教授ホームページ:http://www.kurodalab.org

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