研究最前線

生物飛行を再現出来るシミュレーターが誕生

ジェット機は落ちても、昆虫が落ちない秘密解明へ
顔写真 劉 浩
(りゅう ひろし)
(千葉大学工学部電子機械工学科 教授)
戦略的創造研究推進事業(さきがけタイプ)
 研究領域「シミュレーション技術の革新と実用化基盤の構築」研究者
 強力なエンジンと大きな翼を持つジェット旅客機のような人工飛行体も、20年前の日航ジャンボ機事故のように、時には墜落することがあります。これに対して、翅(はね)の羽ばたきで飛ぶ昆虫は、横風のような強い外乱を受けても墜落しません。それは何故か。こんな昆虫飛行のメカニズム解明は羽ばたきロボットなどを使って行われてはいますが、研究対象は静止飛行に限られ、急旋回などの自由飛行についてはほとんど研究されていません。その秘密を解き明かそうと、羽ばたき飛行する昆虫の静止・前進・旋回を含む全ての自由飛行を再現出来るシミュレーターが誕生しました。千葉大学工学部電子機械工学科・劉浩教授の成果です。
ねらいと背景
昆虫は羽ばたきだけで揚力と推進力を得る

 飛行機や鳥や昆虫が飛ぶには、地球の重力に打ち勝って自分の体を空中に浮かせる揚力と前進する推進力が必要です。たとえば、ジェット旅客機は、揚力は主翼で、推進力はジェットエンジンで得ています。
 これに対し昆虫は、翅の羽ばたきだけで揚力と推進力の双方を得ているのです。ここが飛行機のような人工飛行体と、鳥や昆虫といった生物飛行体との大きな違いです。
 生物飛行体の羽ばたきの回数は、体の大きさで大きく異なります。高速ビデオカメラ撮影などで昆虫類の羽ばたき回数を調べた結果、トンボや蛾みたいな大型昆虫の羽ばたき回数は毎秒20数回なのに、蜜蜂では毎秒約250回、体長1mmほどのアザミウマという昆虫に至っては、毎秒1000回以上であることが分かりました。体が小さいほど、毎秒当りの羽ばたきの回数(周波数)は多く(高く)なるのです。
 人間は、空気力学の様々な理論を蓄積し、ジェット機を設計できるようになりましたが,毎秒20〜1000回も羽ばたく昆虫の翅がなぜ自重を遥かに上回る揚力を発生できるかについては、いまだに多くの疑問が残っており、理路整然と説明できる理論がないのです。
 飛行体の流体力(揚力)の発生原理は、サイズによって大きく異なります。何百人もの乗客を乗せたジャンボ旅客機が主翼で自重を上回る大きな揚力を生み出せるのは、流線型の断面をした翼の上面と下面を流れる空気の流れの速さの違いを都合よく利用できるからです。高校の物理で教わった「ベルヌーイの定理」を思い出しませんか。
 ところが、ミリメートルサイズの昆虫の翅の断面は流線型ではなく、ほとんどフラット(平板形)に近いのです。また、激しく羽ばたき運動もします。これでは「ベルヌーイの定理」で昆虫飛行の揚力を説明することはできません。

体長5cmほどのスズメ蛾のホバリング(静止)飛行を示すシミュレーション画像
体長5cmほどのスズメ蛾のホバリング(静止)飛行を示すシミュレーション画像

内容と特徴
昆虫の飛行をコンピューターで再現

 こうした研究に先鞭を付けたのが英国ケンブリッジ大学のエリントン教授。同教授は、「フラッパー」と呼ぶ羽ばたきロボットでの実験から、全長数十mのジャンボ機のような大型飛行体と全長数cmの昆虫では翼に及ぼす空気の慣性と粘性の働き方が違うのに気付き、1998年に発表しました。大型飛行体では慣性を主に考えればいいが、昆虫のような小型飛行体では慣性と粘性が同時に効いてくるというのです。
 そのため、飛行機の主翼周りと昆虫の翅周りの空気の流れの性質は全く違い、昆虫の場合は翅の前縁に出来る渦が揚力発生に非常に重要なことが分かりました。飛行機の場合、主翼周りの空気の流れに乱れは厳禁で、流れが翼から剥がれて渦が生じたりすれば揚力が落ち、失速してしまいます。
 さらに1999年には米国カリフォルニア大学バークレー校のデンキンソン博士が、同様に羽ばたきロボットの実験から、昆虫類は羽根の横方向の「8の字回転」からも揚力(回転揚力という)を得ているとの説を唱えました。
 エリントン教授は体長5cmほどのスズメ蛾を、デンキンソン博士は体長3mmほどのハエをモデルにしていますが、いずれにしても、飛行機に絡む流体力学からの類推では出て来ない話です。まるで互いに力学の世界が違うみたいなのです。
 空を飛ぶということでは同じなのだから、そこに何か共通の法則はないのだろうかと、その解明に向けて羽ばたきロボットの実験だけでは無理な昆虫の自由飛行の全てを計算によってコンピューターの中で再現出来るシミュレーターを作ろうというのが劉教授の目標です。

生物飛行再現シミュレーターの有効性の検証に使われた羽ばたきロボット
生物飛行再現シミュレーターの有効性の検証に使われた羽ばたきロボット

展望
小型飛行体やマイクロマシンの設計に役立つ

 昆虫の羽ばたき飛行を厳密な幾何学、運動学及び力学のモデルに基づいて解析して構築した計算式による、静止・前進・旋回を含む全ての自由飛行のシミュレーションは劉教授の研究室のパソコンで既に行われています。
 見せてもらったシミュレーション画像では、モデル化された体長5cmのスズメ蛾が羽ばたいていました。「スズメ蛾なら羽ばたき周波数は20数ヘルツだから安上がりで済みます」と劉教授は笑いながら説明してくれました。
 別に「MOTH―1」と名付けた羽ばたきロボットもあり、東京大学の風洞を用いてシミュレーターの実力を検証中です。この実験には、蛾・ハエ・蜂など20種近い昆虫の翅モデルを使っています。劉教授は「このシミュレーターでほとんど全ての昆虫飛行の再現が可能です。そういうことを通じて、小鳥サイズの小型飛行体や昆虫サイズのマイクロマシンなどに向けた新しい設計指針や技術を提供出来るようになるでしょう」と言っています。
 さらに劉教授は「これまでお話したように、ジャンボ機のような翼とエンジンで飛ぶ人工飛行体の飛行原理と、翅の羽ばたきだけで飛ぶ鳥や昆虫のような生物飛行体の飛行原理は違うのかもしれませんが、もっと詳しく調べれば、何か共通の原理が見つかり、両者の飛行をオーバーラップして記述出来る理論が生まれるかもしれません。そんな統一理論が出来ないか、夢みています」と語っています。

研究者のコメント
 「ともかく、シミュレーターは完成しました。これを使って、これから色々やるつもりです。飛行の原理に限らず、生物飛行の進化過程や最適原理などについてはまだ分からないことだらけで、研究の対象としては実に面白い。たとえば、翅の構造とかその物性、翅を羽ばたかせる原動力の測り方も分かっていません。こんな科学的なことばかりでなく、蛾と蝶の色の違いと保身術と行動などといったことまで考えると、毎日が新発見の連続で、研究が楽しくてたまりません」
劉教授ホームページ:http://www.simulation.jst.go.jp

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