ハイブリッド型分子動力学シミュレーションの開発
京都大学大学院 工学研究科 山本量一 助教授 
 
 高分子・液晶分子・界面活性剤分子・ゲル・生体膜・コロイド粒子などのソフトマターと呼ばれる物質や、 それらの集合体(複雑流体)のような機能性材料として期待されている物質の多くは、空間的にも時間的にもミクロスケール、メソスケール、 マクロスケールのように全く異なる階層構造が混在しており、最先端のシミュレーション手法を用いても、 全ての階層を同じレベル(計算手法)で取り扱うことは難題です。例えば、代表的なソフトマターであるコロイド粒子や生体分子の溶液の場合、 溶媒を構成する分子の大きさや運動の時間スケールがコロイド粒子や生体分子のそれらより何桁も小さいので、シミュレーションを分子スケールにあわせて行うと、 世界最速のスーパーコンピュータを用いてもしても結果を得るまでに、なんと1020年もの天文学的な計算時間がかかってしまいます。 これでは実質、計算は不可能です。今度は逆にコロイド粒子や生体分子にスケールをあわせると、 現実とは掛け離れた仮想的なモデルを用いてシミュレーションを行うため、実際の物質との対応が希薄になってしまい、有効な結果を得られません。 このようにソフトマターや複雑流体が複数のスケールで階層を成しているために、そのシミュレーションを実行することが非常に困難になっており、 この問題を克服した新しいシミュレーション法の開発が待ち望まれています。

 戦略的創造研究推進事業のさきがけ「シミュレーション技術の革新と実用化基盤の構築」領域における山本助教授のグループでは、 この原理的問題を克服する新しいシミュレーション法であるハイブリッド型分子動力学(MD)シミュレーション方法を開発しました。 世界最速のコンピュータを用いてもコロイド粒子分散系の計算には天文学的な時間がかかるといいましたが、大きく遅い自由度を粒子として扱い、 小さく速い自由度は粗視化して連続体として扱うことによって計算時間を大幅に短縮することが可能です。 しかし、これまでの数値計算ではコロイドと溶媒の相互作用を粒子界面での境界条件として与えるため、 溶媒がコロイドに与える作用を動的に計算することが非常に難しく、多粒子分散系の数値計算はやはり困難なままでした。 ハイブリッドMD法では、異なるスケールを持つ物質間の相互作用を物理的に正確に、かつコンピュータが扱いやすい形で表現し直すことでこの問題を解決しています。

 一例として、液晶溶媒に分散するコロイド粒子のシミュレーションにハイブリッド型MD法を応用する際には、 コロイド界面を連続的に取り扱うという従来とは全く視点を変えたアイディアを導入することで、 これまで解明できなかった多粒子分散系の数値計算における問題を解決でき、 世界で初めて液晶溶媒に対する多粒子分散系のシミュレーションに成功しました。

 また、この技術を応用して開発したコロイド粒子の 電気泳動シミュレーションでは、コロイド粒子、対イオンの濃度場、 溶媒、流動場の3つの自由度が全て矛盾なく取り扱われており 、単純な状況を設定して理論的な解析結果と比較すると電気泳動速度に対する計算誤差は5%以内であることが確認されました。

 与える外部電場が弱いときには電気泳動も遅く、イオンはコロイド粒子の周りにほぼ等方的に分散していますが、 外部電場が大きくなると泳動速度は速くなり、外部電場の効果と溶媒との摩擦 の効果により、イオンの分布は彗星が尾を引くように非等方的になります。 この効果によって外部電場と電気泳動速度の関係に非線形性が生じることが分かりました。



 左図は電気泳動のシミュレーションです。外部電場Eで右方向に速度Vで泳動したコロイド粒子周りの対イオンの分布をカラーマップで表示。 外部電場、及び対イオンと溶媒との間に働く摩擦によってコロイド粒子周りのカウンターイオンの分布は非等方的になります。右図は多粒子の電気泳動です。

 ハイブリッド型MD法は適応の範囲が広く、水中の生体分子や界面が関与する問題、機能性材料開発、 ナノテクノロジーによる機能性材料開発への応用が期待できます。さらには、最近注目を集めているマイクロ流体デバイスやマイクロラボのような、 微細な部品を設計段階でシミュレーションするために力を発揮します。このような微小スケールの移動現象では流体のレイノルズ数が小さいために、 乱流の効果を無視することができます。逆に熱や物質の拡散の効果が大きくなり、イオンの分布や分子の配向など、溶媒の自由度の影響も重要になります。 これらの研究について、これまで多彩な現象が報告されてはいるものの、ほとんど理解が進んでおらず、 現象解明にもハイブリッドMD法によるシミュレーション解析が有効な手段となりえます。

 ハイブリッドMD法を用いれば、これまでは限られた人のみが使用可能な超並列スーパーコンピュータを用いて行っていたシミュレーションが、 安価で高性能なPC単体で実施できるようになりました。これにより、ソフトマターを対象としたMDシミュレーションが一部の大学や研究所だけでなく、 企業でも多くの人々が利用できるようになり、産業界の活性化と発展に貢献します。