相対論的分子理論プログラムの開発
東京大学大学院 工学系研究科 中嶋隆人 助教授 
 
 近年、ナノテクノロジーの基盤となるナノマテリアルや、バイオテクノロジーを担う生体分子などの物質をナノレベルで制御する研究が盛んに行われており、 新しい機能・特性の発現を目指して、科学者の取り扱う物質は周期表の幅広い種類の原子を含む分子系へと拡がりを見せています。
 
 これらの分子系の多くは、現代あるいは次世代の産業や科学の基盤となる物質になります。そのため、科学で取り扱う物質の多様化に伴い、 理論化学においても化学的に興味のある多様な系を視野に入れる必要が出てきました。 地球上に存在する物質は人工に合成された元素を含めて100種類程度の元素から構成されています。 そのような幅広い種類の元素を含む分子系を高精度で、かつどんな元素を含んでいても同じ精度を持って計算できる手法が求められています。 なぜなら、従来の分子理論は非相対論方程式に基づいているので、軽元素だけを含む分子系ならば高精度に計算できますが、相対論効果が重要になってくる重元素を含む分子系には用いることができないためです。 重元素を含む分子系を精度良く計算するためには、相対論的方程式に基づいた相対論的分子理論を考慮することが必要不可欠なのです。

 戦略的創造研究推進事業のさきがけ「シミュレーション技術の革新と実用化基盤の構築」領域における中嶋助教授のプロジェクトでは、相対論的分子理論を展開して、 幅広い種類の元素を含む分子系を取り扱うことのできる理論化学の構築を目指しました。大規模分子を取り扱うための量子化学的手法は大きく分けて「高速計算法」と「領域分割法」の2種類があります。高速計算法は計算コストを減らして高速計算を実現する方法で、 本プロジェクトでは相対論的Pseudospectral法 (PS法)、相対論的平面波補助基底法、局在化電子相関法等を開発しました。

 一方、領域分割法は異なったレベルの理論を分子系の異なった部分に当てはめる方法です。 本プロジェクトでは重原子を局所的に持つ分子の計算に適したSPOT法(Spectral Operation for the Total system)を開発しました。 これらの計算法を個々に発展させ、それらをうまく組み合わせることで、周期表のあらゆる元素から構成される大規模な分子系を高精度に計算可能な相対論的分子理論プログラム・パッケージ「REL4D」を開発しました。

 例として、「高速計算法」の中のPS法を用いると、相対論的分子積分の計算コストを大幅に減らすことができ、重原子を含む大規模分子系の計算に有効であることがわかりました。 この研究で算出されたRe2(CO)10分子はこれまで4成分の波動関数を取り扱う相対論的分子理論に基づいて計算された分子のうち、世界で最も大きな分子です。

 また、化学的に興味のある分子は、重原子を局所的に持つものが多くあります。 領域分割法のSPOT法は、まさに触媒作用を示す金属錯体や生体作用に影響を及ぼす微量金属分子のような、 重原子を局所的に持つ分子に適した計算法です。このような分子系を計算する場合、重原子を含む部分は相対論的な方法で高精度に取り扱い、 それ以外の部分を計算負荷の小さい非相対論的な方法で取り扱うことができれば、とても効率的に大規模重原子分子系の理論計算が実現できます。 一例として、SPOT法を用いてAl(111)表面におけるCOの吸着エネルギーを計算しました。着目部分のみについて相対論効果を考慮し、 それ以外の部分を非相対論的に取り扱いました。計算で得られた吸着エネルギーの値は−0.18eVで、実験による実測値の-0.21eVと非常に対応が良いことが分かりました。 ちなみに、環境場を考慮しない従来の計算方法で得られた結果は-0.40eVなので、従来法と比較してもSPOT法の精度の高さが実証でき、本プロジェクトが目指した相対論的分子理論の開発は、重元素を含む分子系の理論計算に新たな道を拓くことができました。