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「ナノと物性」領域研究最前線 -詳細-
 
半導体ナノ構造体中に現れる新スピン物性の制御と応用
独立行政法人 科学技術振興機構 さきがけ研究者
NTT物性科学基礎研究所 機能物質科学研究部 客員研究員

古賀 貴亮
 
そもそも、スピンの自由度とは何でしょうか? 或いは、量子力学を勉強された方なら、スピンの自由度はわかるのだけれど、電荷の自由度というのがよくわからないとおっしゃるかもしれません(実は私もそうなのです)。一つの粒子が持つ自由度って普通、(x, y, z)で表される自由空間での位置ですよね。それだったら、電荷の自由度なんて言わずに位置の自由度とでも言った方がわかり易いんじゃないかと思います。それをわざわざ「電荷の」というのは、やっぱり、固体中の電子の自由度というのは電荷によってつくられているからなのです。皆さまもご存知のように固体中の電子はバンド構造をとります。バンドというのは、原子や分子の場合の電子の軌道に相当します。つまり、電荷の自由度とは自由空間中の任意の点(x, y, z)ではなく、電子(の電荷)と原子核(の電荷)の間に働くクーロン力(と量子力学)によって形成された電子の軌道(量子状態)による自由度ということになります。
話が少々ややこしくなりましたが、電荷自由度を利用したデバイスとは、つまり、外から加えられた電荷に対する力(例えば電場によるクーロン力)により電子がある軌道から他の軌道に飛び移るといった現象を利用したデバイスということになります。実は、導体(金属)の両端に電圧をかけると電流が流れるというのは、まさにこのような現象なのです。
では、電子のスピンの自由度を利用したデバイスを実現するにはどうしたらいいか?それには、電子のスピンに働く力を見つけることです。最も簡単な例は磁場です。電子スピンを一つの小さな磁石と見たてると、磁場によりスピンにはトルク(回転させようという力)が働き、磁場の方向にスピンの向きがそろいます。この現象を利用することにより、電子を上向きのスピンを持ったものと、下向きのスピンを持ったものに振り分けることができ、その情報(スピンの情報)が消えないうちにスピンの自由度を利用した何らかの演算をさせようというのがスピントロニクスの一つの方向です。


一方で、私が研究で注目しているのは、スピンに働く力のなかではやや複雑な「スピン−軌道相互作用」という力です。この力の本質は、高速で運動する電子に運動方向と垂直に電場がかかると運動している電子は磁場を感じる(しかし、空間には磁場は発生しない)という相対論的(難しいです!)なものですが、電子デバイス中ではこのような状況は割りと簡単に実現できます。

図1に示したのは、インジウムガリウム砒素(InGaAs)とインジウムアルミニウム砒素(InAlAs)という半導体を交互に積層してつくった、いわゆる"量子井戸構造"の模式図です。また、この構造中で電子が感じる静電ポテンシャルと電子の存在確率を量子井戸に垂直な方向の位置の関数としてプロットしたのが図2です。図2に示したように、この構造中では、電子はほぼ100%InGaAs層(量子井戸層)中に存在する(流れる)ことがわかります。また、この構造では、量子井戸の下側にキャリア供給層があるため(逆HEMT構造、HEMT : high electron mobility transistor)、量子井戸の形が単なる矩形(或いは左右対称な形)からかなり歪んでいることがわかります。実は、このポテンシャルの歪みこそが、上で論じた電子の運動方向と垂直な方向に働く「電場」を発生させるのです。


図1:InAlAs/InGaAs/InAlAs量子井戸構造
 
図2:InAlAs/InGaAs/InAlAs量子井戸構造のポテンシャル図


量子井戸中を流れる電子のスピンに力が働いている(スピン−軌道相互作用)ことを確かめる一つの方法は、非常に低い温度(絶対温度で数百ミリK以下)で量子井戸の磁気抵抗(試料の電気抵抗を外部より印加した磁場の関数として測ること)を測ることです。このような低温では、電子は非常に長い距離(数から数十マイクロメートル)に渡って波としての性質を保ちます。そのため、通常の(ポテンシャルの形状が対称な)量子井戸では、電子波は干渉を起し(そのために電流が流れにくくなり)、余分な抵抗が発生します(印加磁場がゼロの場合)。ところが、その状態で量子井戸に垂直な方向に一様な外部磁場を印加すると電子波の干渉が徐々に壊され、磁場の増大と共に電気抵抗は減少します。よって、電気抵抗の値は磁場ゼロで極大になります(これを「弱局在の効果」と呼びます)。ところが、量子井戸中の電子スピンに力が働くと、磁場ゼロの状態でも電子波の干渉が起りにくくなります。詳細な計算によると、電気抵抗は磁場ゼロで極小となることが知られています。つまり、低温での磁気抵抗が磁場ゼロで極大になるか極小になるかで、試料中の電子のスピンに力(スピン−軌道相互作用)が働いているか否かが(また、その大きさが)わかるわけです。

図3と図4に示したのは、MOCVD法(Metal Organic Chemical Vapor Deposition、有機金属気相成長法)という方法で作製したInGaAs量子井戸の低温での磁気抵抗の測定結果です。図3のサンプルは、量子井戸ポテンシャルの形が左右対称(図5参照)になるように、図4のサンプルは、ポテンシャルが歪んだ形(図2参照)になるように設計されています。これらの図に示されているように、歪んだ形の量子井戸においては、磁気抵抗が磁場ゼロで極小になり、井戸中の電子スピンに大きな力が働いていることがわかりました[1]。(一方、ポテンシャルが対称な量子井戸に関しては、スピン−軌道相互作用は、ほとんど働いていないことがわかります。)
図3: ポテンシャルの形状が対称なInGaAs量子井戸の低温での磁気抵抗
図4: ポテンシャルの形状が非対称なInGaAs量子井戸の低温での磁気抵


図3、図4示された最も重要な結論は、量子井戸の形を変えることによって、電子スピンに働く力(スピン−軌道相互作用)の大きさを変えられるということなのですが、このことは、将来のスピントロニクスの発展にとって非常に大きな意味を持ちます。というのも、量子井戸の形状というのは、ゲート電圧を印加するなどして外部よりある程度制御可能だからです。つまり、これまで電界効果トランジスタで電流をオン、オフするために用いていたゲート電極の技術が、将来のスピンデバイスにおいてはスピン自由度の制御のためにも利用できるということです。


図5:ポテンシャルの形状が対称なInAlAs/InGaAs/InAlAs量子井戸構造のポテンシャル図
今後の私の研究では、これまでの実験結果を踏まえて、スピンの自由度を利用した様々な新奇な電子デバイスを提案、開発していきたいと思います。例えば、これまでには、図6に示すような共鳴トンネル構造(RTD, Resonant Tunnel Diode)(ポテンシャル障壁の形が"山"型にあることがミソ)を用いると、ある特定のスピンをもった電子のみを透過させるようなスピンフィルターを実現させることが可能であるということを提案しました[2]。このデバイスは、ある種のダイオードとみなすことができ、従来のダイオードが、プラス或いはマイナスどちらかの電気しか通さないことに類似して、上向きか下向きかの一方のスピンを持った電子のみしか通さないといった、スピン自由度を利用した整流デバイス(ダイオード)を実現します(図7参照)。その他のトピックとしては、図8に示すように、InGaAs量子井戸基板上にナノスケールの精度で微細構造を作製し、その中での電子波の干渉の効果を調べることにより、ナノ構造中でのスピン−軌道相互作用の効果と制御について研究を進めていく予定です。これらの研究の詳細は、またの機会にご紹介します。
図6:三重障壁共鳴トンネル構造を利用したスピンフィルターの提案
(図中桃色、水色で示した部分はそれぞれp型、n型にドープされている)。
図7:図6で示された共鳴トンネルスピンフィルターにおいて理論予測されるI-V特性。(a)-(c)は、障壁層へのドープ量をいろいろと変化させた場合の計算結果。インセットはそれぞれのドープ量に対応するポテンシャル図。
図8:InGaAs量子井戸基板上にナノスケールの精度で作製した微細構造。
ナノ構造中でスピン−軌道相互作用が電子波の干渉にどのような効果を及ぼすかを研究する。
【参考文献】

[1] T. Koga, J. Nitta, H. Takayanagi, and S. Datta, Phys. Rev. Lett. 89, 046801 (2002).

[2] T. Koga, J. Nitta, T. Akazaki and H. Takayanagi, Phys. Rev. Lett. 88, 126601 (2002).
 
 
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