研究課題別事後評価結果

1.研究課題名
神経系の遺伝的プログラムと可塑的メカニズム
2.研究代表者名及び主たる研究参加者名(研究機関名・職名は研究参加期間終了時点)
研究代表者  松崎 文雄  理化学研究所 発生再生科学総合研究センター グループディレクター
主たる研究参加者  瀬原 淳子  京都大学再生医科学研究所 教授
 大隅 典子  東北大学大学院医学系研究科 教授
 中福 雅人  東京大学大学院医学系研究科 助教授
 浜 千尋  理化学研究所 発生再生科学総合研究センター 室長
 鈴木 えみ子  東京大学医科学研究所 助手
3.研究内容及び成果
 神経ネットワークを構成する各々の神経細胞は、回路網の中で固有の役割を果たしており、独自の個性を持つ。従って、神経が個性を獲得する仕組み、すなわち、神経細胞の運命決定は、神経発生の遺伝的プログラムの根幹をなすと言ってよい。1995年、ショウジョウバエ神経幹細胞の分裂に伴って、神経の運命決定に必須な転写因子prosperoが姉妹細胞である神経前駆細胞に不等分配されることを松崎グループは発見し、非対称な細胞分裂が、少数の神経幹細胞から多様な個性を持つ神経細胞を生む重要なプロセスである可能性を世界に先駆けて示した。非対称分裂グループ(松崎文雄)では、この研究成果を出発点に、主にショウジョウバエをモデル実験系として、神経幹細胞の非対称分裂のメカニズムとその役割を追求した。

 ProsperoとNotchの抑制因子であるNumbは、神経細胞の運命決定に必須な因子であるため、これらの因子は神経の運命決定因子と呼ばれ、どちらも、幹細胞で発現し、細胞分裂に伴って神経前駆細胞に不等分配される。そのためには、分裂中の神経幹細胞の中で、これらの因子が局在することが必要である。そのメカニズムとして、これらの運命決定因子と直接結合し、その局在を規定するアダプター分子の存在が想定される。そこで、Prosperoのアダプター因子の同定を試み、Mirandaを同定した。miranda突然変異では、Prosperoが幹細胞と神経前駆細胞に等分配される。この変異を用いて、Prosperoの不等分配が神経の運命決定に必要とされることを示し、幹細胞の非対称分裂が神経細胞の個性の確立に必須な役割を果たすことを証明した。

 神経幹細胞の分裂の際、Prospero蛋白だけでなく、RNA結合蛋白として知られているStaufenに結合したProspero mRNAも同様に不等分配されることが報告された。松崎グループは、Mirandaを結合することにより、Prospero mRNAも不等分配することを示した。

 神経幹細胞は、Prospero蛋白とそのmRNA、さらにはNumbを神経前駆細胞に不等分配するために、細胞内でこれらの因子を非対称に局在させる。一般に細胞内で構成成分が非対称に分布することを細胞が極性を持つという。神経幹細胞で、これらの因子を非対称に分布させる細胞極性の実体とはいったいどのようなものであろうか。この問題は神経幹細胞の非対称分裂に限らず、細胞と発生をむすぶ基本的な問題である。松崎グループは、ProsperoとMirandaが神経幹細胞を形成する前の神経上皮細胞でも発現し、そのbasal側(基底膜側)に局在することを見出した。また、胚発生の過程で、これらの因子を胚全体で強制的に発現させると、神経上皮に限らず、上皮細胞では必ずそのbasal側に局在することを見出した。このことは神経幹細胞の非対称分裂を制御する細胞極性が、上皮細胞に典型的なapical-basal極性と共通点を持つことを意味し、神経幹細胞と上皮細胞の極性が共通の分子基盤に基づくことを示唆した。その後、上皮細胞の極性の形成に必要とされる因子Bazookaが神経幹細胞の極性の制御に関与することが他の研究グループによって示され、この事実が証明されるに至った。

 Prosperoなどの運命決定因子の不等分配は、それらの因子の局在だけで成立する訳ではなく、分裂軸が運命決定因子の局在に一致する必要がある。Inscuteableはこのメカニズムに働く因子として最初に同定されたものである。線虫受精卵の極性形成因子であるPar3のホモログであることが判明したBazookaとともに、Inscuteableは幹細胞のapical側(先端側)に局在し、神経幹細胞の分裂軸の方向を決定すると同時に、その対極に集積する運命決定因子の局在にも重要な役割を果たすことが判明し、細胞の極性の形成するメカニズムの構成要素であることが明らかにされてきた。しかし、これらの因子がいかにして幹細胞内で局在し、どのようなメカニズムで、運命決定因子の局在を制御するのか、などの基本的な問題は依然不明である。そこで、これらの基本的な分子メカニズムを知ることを目的として、突然変異のスクリーニングを行うことにした。

 神経幹細胞内で明確な非対称分布を示すMirandaの局在を指標として、ショウジョウバエのゲノムのおよそ70%をカバーする約300系統の染色体欠失のセットをスクリーニングした。その結果、Mirandaが神経幹細胞とその姉妹細胞に等しく分配される欠失が28箇所同定できた。そのひとつは、脳腫瘍を引き起こすがん抑制遺伝子giant larvae が原因遺伝子であることが判明し、さらにもう一つのがん抑制遺伝子discs largeも同一の表現型を示すことが判明した。giant larvae遺伝子を失うと、神経幹細胞は、Mirandaはもとより、Notchシグナルの抑制因子Numbも等分配することから、Giant larvaeは、ショウジョウバエの神経幹細胞から非対称分配される全ての神経運命決定因子の局在を制御することがわかる。Discs largeはGiant larvaeの局在に必要とされる。これらのがん抑制因子は、細胞の表層に均等に分布し、細胞の極性を造り出すscaffoldとして機能する。そして、myosinの機能の制御を通して、運命決定因子の局在に働くことが明らかにされた。その後、このスクリーニングを発展させた点突然変異によるランダムなゲノムワイドのスクリーニングを行い、これまでにない表現型を示す突然変異群を同定し、神経幹細胞の非対称分裂に働く未知の分子メカニズムを系統的に解明する基盤を確立した。

 神経系の構築にかかわるNotchシグナルやEphrinなどの膜型リガンド・レセプター分子はADAMプロテアーゼによる切断によって初めて活性を獲得する。細胞間相互作用グループ(瀬原淳子)はこのファミリーに属する膜型プロテアーゼメルトリン・遺伝子がglial growth factor(別名neuregulin)を切断し、膜型から可溶性分子に変換することをまず明らかにした。さらに、メルトリン・遺伝子ノックアウトマウスの解析から、この遺伝子が、神経冠細胞の遊走や神経の軸策慎重・束索化に関与することを見出し、神経構築の過程で、シグナル分子のプロセシングが重要な調節機能を担うことを示唆した。
 
脊椎動物神経発生グループ(大隅典子)
 神経系が正確な回路網を形成する基盤となる脳原基(神経管)の領域化のメカニズムを、領域特異的な発現を示す転写因子Pax6に着目して、実験発生学的手法と分子形態学的手法を駆使して解析した。その結果、前脳成立時に、Pax6が接着分子Cadherinの発現を制御することにより区画成立に重要な働きをしていること、菱脳、脊髄部神経管では、Wint遺伝子群の一つWnt7bなどの発現制御を行うことにより背腹軸に沿ったパターンニングに働くことを明らかにした。また、Pax6変異ラットヘテロ接合個体は薬物投与によらずヒト精神分裂病に対応する症状を呈することから、モデル動物として有用である可能性を示した。
 
培養細胞グループ(中福雅人)
 哺乳動物神経系において神経幹細胞から多様なニューロン・グリアが生み出されるメカニズムを追求し、まず、bHLH型転写因子Mash1およびhomeodomain型転写因子Prox1(Prosperoのマウスホモログ)が自己複製している幹細胞が分化を開始する初期過程を制御することを明らかにした。また、発生期脊髄において時期および領域特異的に発現するbasic helix-loop-helix (bHLH) 型転写因子Olig2, Ngn2, Mash1が、神経管腹側における運動ニューロンとオリゴデンドロサイトの逐次的な発生を制御していることを明らかにした。さらに、外傷性脊髄損傷、虚血性海馬損傷などの疾患モデルを用いて、これら因子を発現する神経幹細胞・前駆細胞の増殖・分化を個体レベルで操作することにより、損傷組織に新たなニューロンの再生を誘導することに成功した。
 
シナプス形成グループ(浜千尋)
 神経回路の形成機構、とりわけ、軸索伸張、シナプス形成の制御を、small G proteinの調節因子であるグアニンヌクレオチド交換因子(GEF)を中心に解析した。まず、軸索伸張を制御するGEFとしてTrioを同定し、この分子が軸策だけでなく樹状突起の伸張をも抑制することを示した。また、GEFのひとつであるStill life (SIF)がシナプスの構造的可塑性を制御する因子と遺伝学的相互作用を持つことを明らかにし、シナプス可塑性の制御因子であることを示唆した。さらに、神経筋接合部におけるSIFなどの局在を基礎として、シナプス膜上の新しい発生制御領域としてペリアクティブゾーンの存在を示し、新しいシナプス末端構造のモデルを提示した。
 
シナプス構造グループ(鈴木えみ子)
 シナプスの形成や可塑的変化の遺伝的制御過程が微細構造レベルでどのように具現されるのかという問題を、ニューロンとその標的筋細胞の選択的シナプスの形成過程を対象として研究した。そして、運動ニューロンが標的筋細胞に近づく時期に筋細胞から伸びる多数の糸状仮足を発見し、myopodiaと命名した。このmyopodiaの形成が筋細胞自律的な過程であることを明らかにし、シナプスのパートナーをシナプス形成部位に誘う第一段階として重要な過程であることを示唆した。
4.事後評価結果
4−1.外部発表(論文、口頭発表等)、特許、研究を通じての新たな知見の取得等の研究成果の状況

 神経系の発生分化の基本原理の解明を目標として、ショウジョウバエで、非対称性細胞分裂が神経幹細胞(NSC)から多様な個性を持つ神経細胞を生むことを世界で最初に発見して、その関連因子と分子機構を解明した。すなわち、神経幹細胞から神経細胞が生じる過程で神経細胞の個性を決定する遺伝子プログラムの解析および神経回路網形成の基礎となる脳原基の領域化と個性的なシナプス形成メカニズム解析など、脳形成の基本となる遺伝子プログラムの解析が着実に進んでいる。神経科学とは少し離れるかも知れないが、質の高い研究である。ガン抑制遺伝子がProsperoなど運命決定因子の不等分配に決定的役割を果たす(Nature)という発見は重要と思われる。また脊椎動物でも転写因子pax6が領域特異性を決めることを明らかにした。

 神経細胞の個性を決定するメカニズムをショウジョウバエの分子遺伝学と脊椎動物の発生工学的研究の両面から解析すると言う当初の構想は各々の実験系では成果を挙げたが、ショウジョウバエで発見された転写因子の不等分配が脊椎動物にも当て嵌まるかどうかが唯一気掛かりである。
 英文論文のレベルは国際的に見て極めて高い。多数の優れた原著論文が発表されている。特許は研究内容の性質が基礎であり取りにくいと思われるが、脊椎動物の研究がさらに進展すれば、特許出願ができる可能性が高い。現在のところ、モデル動物の「抗精神病薬のスクリーニングの方法」の国内特許出願が1件である(外国特許出願済み)。

 非対称分裂グループを中心として、培養細胞、シナプス形成、シナプス構造、細胞間相互作用、脊椎動物神経発生の各研究グループが互いによく連係し、神経系の発生分化を共通の目標として着実に成果を上げた。若手研究者の育成もめざましいものがある。研究費の配分が各年度ともバランスよく行われている。

4−2.成果の戦略目標・科学技術への貢献

 ショウジョウバエの非対称分裂から、脊椎動物へと研究を進めつつある。神経系の発生分化の基本原理の解明は、統合失調症(精神分裂病)モデルとなる可能性のあるPax6変異ラットの開発など応用に結びつく可能性が大きい。がん抑制遺伝子に関する発見は思いがけないものでインパクトは大きい。

 神経系の遺伝プログラムの研究は国際的に激しい研究上の競争がある分野であるが、発表論文のレベルから見て非常に高い水準にあると判断される。神経系の発生・構築は極めて重要な課題の一つで、生物学の基本原理の追求課題でもある。重要な基礎的知見が蓄積されている。がん抑制遺伝子に関する成果はがん研究にとっても重要であろう。

 ショウジョウバエの系は神経系の発生分化の研究にとってモデルとして最適であるが、脊椎動物の神経発生分化の分子機構の解明への応用発展を期待する。神経分化とがん抑制遺伝子との関連が明らかにされることおよび大隅グループの分裂病モデルの研究などの進展を期待する。

4−3.その他の特記事項
 神経幹細胞の非対称分裂の原因となる極性に関係する分子群は極めて複雑でショウジョウバエでも未だ全貌はわかっていない。様々な局在因子がなぜ細胞内に非対称性に分布するのかは生物学の根本原理である。ショウジョウバエで解明された原理を脊椎動物から最終にはヒトに至るまで追求していってほしい。安易に再生医療が語られる中で、細胞の増殖と分化の遺伝子制御という、最も基本的な問題を取り上げ、脳形成の遺伝子プログラムに正面から取り組んでいる姿勢を高く評価する。
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