研究課題別事後評価結果

1.研究課題名
シナプス可塑性の分子機構と脳の制御機能
2.研究代表者名及び主たる研究参加者名(研究機関名・職名は研究参加期間終了時点)
研究代表者  小澤 瀞司  群馬大学医学部 教授
主たる研究参加者  岡戸 晴生  東京都神経科学総合研究所 副参事研究員
 岡田 隆  専修大学文学部 助教授(平成13年4月〜)
 吉田 薫  筑波大学医学専門学群基礎医学系 教授(〜平成14年3月)
 平野 丈夫  京都大学大学院理学研究科 教授
 重本 隆一  岡崎生理学研究所 教授(〜平成10年10月)
 久保 義弘  東京医科歯科大学大学院 教授(〜平成10年10月)
 姜 英男  大阪大学大学院歯学研究科 教授
3.研究内容及び成果
 近年の神経科学の特筆すべき成果の一つに、遺伝子クロ−ニング法による神経伝達物質受容体の分子的実体の解明が挙げられる。特に興奮性シナプス伝達とその可塑性変化を担うグルタミン酸受容体では、17種類のイオンチャネル型受容体サブユニット、8種類の代謝調節型受容体タンパク質のcDNAが単離された。本研究では、多種類のグルタミン酸受容体の基礎的性質の解明を行うとともに、グルタミン酸受容体が重要な役割を果たす海馬、小脳などの脳の各部位で、シナプス可塑性を中心とする特定のシナプス機能発現の分子機構と、シナプス機能が神経回路網内での情報伝達及び個体の行動制御に果たす役割を解明することを目指した。また、グルタミン酸受容体がグリアにも広範に存在することが明らかになったので、グリアにおけるグルタミン酸受容体の機能的、病態生理学的意義についても検討を加えた。研究は、次の3つのサブテーマに分けて進められた。

(1)ウイルスベクター法の神経科学研究への応用法の確立とその利用によるグルタミン酸受容体の分子・細胞・神経回路・個体レベルでの機能の解明(小澤、岡戸、岡田、吉田グループ)

 ウイルスベクターを用いて、グルタミン酸受容体サブユニット遺伝子を中枢神経系に導入し、それによって起こる変化を解析することにより、グルタミン酸受容体の分子的多様性がニューロン、グリア、シナプスの機能発現に果たす役割を明らかにすることを目標に研究を行った。当初、ウイルスベクターとしてはアデノウイルスを用いて、発現プロモーターを工夫することにより、ニューロンまたはグリアに特異的に外来遺伝子を発現させる予定であったが、アデノウイルスはアストロサイト系グリアに比べてニューロンへの親和性が著しく低いことから、ニューロンへの遺伝子導入にはニューロンに対して特異的に親和性の高いシンドビスウイルスを用いることにした。これらのウイルスベクターによる受容体の操作は、主としてAMPA型グルタミン酸受容体(AMPA受容体)を対象として行った。AMPA受容体を構成するサブユニットには、GluR1-GluR4の4種類があり、GluR2を含む受容体は外向き整流特性を示し、Ca2+透過性をもたない( I 型受容体)。一方、GluR2を含まない受容体は、内向き整流特性と高いCa2+透過性を示す( II 型受容体)。GluR2がこのように特異な性質をもつことの理由は、GluR1-GluR4の2番目の膜親和性領域(M2)のいわゆるQ/R部位が、他のサブユニットでは中性のグルタミン(Q)で占められているのに対して、GluR2では陽電荷をもつアルギニン(R)が存在することによる。

 AMPA受容体をCa2+非透過型からCa2+透過型に変換するために、 Ca2+透過性を決定するサブユニットであるGluR2のQ/R部位をRからQに置換した点変異体(GluR2Q)を作製し、このRNA遺伝子をシンドビスウイルスベクターに組換え、ラット培養海馬切片または成熟ラット海馬に注入し、CA1ニューロン、CA3ニューロンにCa2+透過性AMPA受容体を強制発現させた。遺伝子導入により新規に生成されたGluR2Qタンパクは、短時間でシナプス下膜に移行し、シナプス伝達を担う受容体に組込まれた。ウイルス感染を受けたCA1ニューロンでは、シャファー側枝のテタヌス刺激による長期増強が低閾値で起こるとともに、NMDA受容体に依存せず、Ca2+透過性AMPA受容体を介して流入するCa2+によって長期増強を発生させることが可能になった。
 一方、アデノウイルスがアストロサイト系グリアに対して高い親和性をもつことを利用して、グリア細胞に発現するAMPA受容体の機能、病態生理に関する研究を行った。この研究では、小脳のベルクマングリアに発現しているCa2+透過性AMPA受容体をアデノウイルスベクターを用いてGluR2サブユニットを強制発現させることにより、Ca2+非透過性受容体に変換し、それによって生じる形態及び機能変化を解析した。この研究で、Ca2+透過性AMPA受容体がグリア突起の形態を制御することにより、小脳プルキンエ細胞の登上線維、平行線維シナプスの伝達特性を正常に維持する役割を果たすことが明らかになった。また、Ca2+透過性AMPA受容体は悪性脳腫瘍である神経膠芽腫細胞にも発現しており、腫瘍の増殖、転移がこの受容体を介する細胞内へのCa2+流入よって促進されることを明らかにした。この結果は、Ca2+透過性AMPA受容体が脳腫瘍治療の分子標的となる可能性を示唆するものである。
 
(2)小脳皮質におけるシナプス可塑性の発現・維持の分子機構と個体レベルでの運動制御における役割の解明(平野グループ)

 小脳皮質のシナプス可塑性の発現・維持機構を分子レベルで解明して、その生体での役割を明らかにすることにより、脳・神経系の機能を分子・細胞・神経回路・個体の各レベルを総合して連続的に理解できるようなモデル研究を行うことを目指した。シナプス可塑性として、当初その発現にイオンチャネル型グルタミン酸受容体δ2サブユニット、AMPA受容体、代謝調節型受容体mGluR1という複数のグルタミン酸受容体が複雑に関与する小脳プルキンエ細胞の興奮性シナプスにおける長期抑圧を主要な研究対象としたが、その後抑制性シナプスにおける脱分極依存性増強も取り上げ、各々の発現・維持の分子機構を明らかにした。また、シナプス可塑性を示さないミュータントマウスなどの運動機能解析及び神経活動記録により、個体の運動制御における各シナプス機能の役割を明らかにすることを試みた。

 興奮性シナプス伝達の長期抑圧については、まずその全時間経過を明らかにすることに成功した。長期抑圧にはmRNA・タンパク質合成に依存せず数時間で終結する初期相と、mRNA・タンパク質合成に依存し約2日間持続する後期相が存在することを示した。さらに、後期相の誘導には活性酸素によるカルシニューリンの不活性化が関わることも明らかにした。また長期抑圧初期相の発現には、MAPキナーゼ活性が必要であること、δ2サブユニットが長期抑圧発現に直接関わっていることも明らかになった。さらに、長期抑圧誘導に必要な代謝調節型受容体mGluR1の活性が、神経活動により長期的な制御を受けることも見出した。また、抑制性シナプスでの可塑性については、シナプス活動がGABA(B)受容体を介してシナプス可塑性の発現を抑えるというユニークなシナプス可塑性制御機構を発見した。その分子機構の解析を行い、GABA(B)受容体がGi/oタンパク質・cAMP・アデニリールシクラーゼ・PKA・DARPP32を介してカルモジュリン依存性キナーゼに拮抗するプロテインフォスファターゼ活性を制御することにより、可塑性発現が抑えられることを明らかにした。

 個体レベルの研究では、多種類のミュータントを利用できるマウスにおいて、個体レベルで運動制御・運動学習能力を定量的に解析するための眼球運動解析システムを確立した。長期抑圧を示さないδ2サブユニット欠損ミュータントマウスとプルキンエ細胞欠損ミュータントマウスを用いた研究により、δ2サブユニット欠損マウスでは、シナプス伝達制御異常により、小脳皮質から存在しない方が良いような異常神経信号が出力されて不随意運動が起こること等により、プルキンエ細胞欠損マウスよりも運動制御能力が劣ってしまうことを明らかにした。

 また小脳皮質組織内での神経情報伝播の時空間パターンを解析するために光学的計測法を適用した。この方法により、小脳ゴルジ細胞の役割や顆粒細胞層・分子層での情報処理の役割分担についての解析を行った。

 
(3)イオンチャネル型及び代謝調節型グルタミン酸受容体の基礎的特性、機能的及び病態生理学的意義の解明(小澤、重本、久保、姜グループ)
 イオンチャネル型グルタミン酸受容体の機能に関して、
1)AMPA受容体において、GluR2サブユニットのflip/flopスプライシング変異体が受容体の脱感作の時間経過を決定することを明らかにし、
2)今まで研究が不十分であったカイニン酸受容体が海馬シナプスでautoreceptorとしての機能を果たすと共に、短期シナプス可塑性の発現に関与することを明らかにし、
3)Ca2+透過性AMPA受容体の発現はcalbindin D28kなどのカルシウム結合タンパクの発現と相関しており、AMPA受容体の活性化から遺伝子発現までの経路にカルシウム結合タンパクの核移行が関与することを示した。
 また代謝調節型グルタミン酸受容体の機能に関して、
1)ホジキン病患者の血清中にmGluR1の機能阻害抗体が存在して、それが運動障害を引き起こすことを示し、
2)mGluR1はCa2+によっても活性化されることを証明し、mGluR1のカルシウム結合部位を決定した。
さらに3)大脳皮質、大脳基底核でシナプス前部に分布する II 型及び III 型代謝調節型受容体を介するシナプス前性抑制が局所神経回路網で果たす機能的意義に関して新知見を得た。
4.事後評価結果
4−1.外部発表(論文、口頭発表等)、特許、研究を通じての新たな知見の取得等の研究成果の状況

 分子生物学的な手法と優れた生理学実験手技を効果的に利用してグルタミン酸受容体の機能解析を行い、それを手がかりにしてシナプス可塑性の分子機構解明の研究を着実に進めている。主な目標であったウイルスによるグルタミン酸レセプター遺伝子の導入に成功し、Ca2+透過性AMPAレセプターという本来海馬CA1にはないレセプターの発現によって長期増強がおこることを確かめ、この方法がシナプス長期増強の分子機構の解明に役立ったことを示した。また、小脳ベルクマングリアの持つAMPA受容体の機能を明らかにした(Science)。

 当初遺伝子導入のベクターとして使ったアデノウイルスがグリアに親和性が強く神経細胞には入らないという困難を克服して、シンドビスウイルスを使って海馬ニューロンへの遺伝子導入に成功すると共に、アデノウイルスを利用してグリア・ニューロン相互作用という別のテーマで興味深い発見(Nature medicine)をし、AMPA受容体阻害薬が脳腫瘍に有効な可能性を示した。またサブグループによって小脳皮質シナプスの可塑性と運動調節の分子機構の研究が大きく進展した。

 Cell, Nature medicine, Nature neuroscience, Scienceなどの一流国際誌に多くの論文を発表している。特許は一報だが、生理学的な基礎研究が脳腫瘍治療法の特許につながった。

 分子生物学的な研究と生理学的な研究が有効に協調できている。平野丈夫教授グループは長期抑圧の時間経過を明らかにし、また抑制性シナプスの可塑性および運動調節機構の解明の分子機構を解明した。人件費が少なく(院生が多い)、設備費が後期まで多く使われていることの2点が他のチームと異なっている。

4−2.成果の戦略目標・科学技術への貢献

 ヒト脳腫瘍細胞におけるAMPA受容体の知見は、AMPA受容体拮抗薬YM872(山之内製薬)、さらにはカルシウム透過性AMPA受容体拮抗薬であるJSTX(サントリー)が脳腫瘍に使える可能性を示す有望な発見である。グリア・シナプス間の機能的連絡の解明はインパクトが大きく、ホジキン病患者血清中にmGluR1の機能阻害抗体が存在して運動障害を起こすこと、などには技術的インパクトがある。ウイルスによる遺伝子導入という方法をシナプスの研究に応用して成功した数少ない例の一つとしてインパクトは大きい。

 グルタミン酸受容体は生理病態に重要であり、サブユニット遺伝子のウイルスベクターによる中枢神経系への導入は独創性が高い研究法であると考えられる。脳腫瘍細胞に対する治療に進展すれば意義は大きい。シナプスの長期増強という学習・記憶のメカニズムの鍵になる現象の分子メカニズムの研究に役立つ。

 グリア細胞のグルタミン酸受容体、グルタミン酸トランスポーターの研究、脳腫瘍や脳虚血に対するグルタミン酸受容体拮抗薬の創薬の可能性など、研究成果のさらなる新しい展開が期待される。ウイルスによる遺伝子導入はいろいろな機能分子や脳のいろいろな部分への応用が可能であり、脳腫瘍の治療にAMPA受容体拮抗薬が使われる可能性には期待が大きい。

4−3.その他の特記事項
 グルタミン酸神経伝達について、優れた日本全国の研究グループをよく統括して大きい成果をあげた。大学院生が多数参加して、若い人材が養成された。
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