個体発生の過程で形成されたシナプスは、その後、外界の影響を受けて変化を起こす。これが、シナプスの可塑性と言われる現象で、記憶学習の基となっている。一方、フェロモンはケミカルコミュニケーションとして動物の社会生活上重要な因子であり、鋤鼻神経系が受容および情報処理に関わっている。これまでのシナプス可塑性の研究の多くは、高頻度電気刺激や外科的手術による可塑的変化を調べる方法がほとんどで、自然刺激による研究が少なかった。本プロジェクトは、自然の刺激によるシナプスの可塑性を解析する目的で、フェロモン刺激が鋤鼻系シナプスの構造及び機能におよぼす影響について解析することを目的とした。
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フェロモンのセンサーである鋤鼻器からの鋤鼻神経は副嗅球内の糸球体で僧帽/房飾(MT)細胞と興奮性シナプスを形成する。副嗅球はフェロモンの記憶を司る部位とされている。また僧帽/房飾(MT)細胞と顆粒細胞は樹状突起間で相反シナプスを形成する。相反シナプスとは、僧帽/房飾(MT)細胞から顆粒細胞の方向性を有するグルタミン酸を伝達物質とする興奮性シナプスと顆粒細胞から僧帽/房飾(MT)細胞への方向性を有するGABAを伝達物質とする抑制性シナプスが並立して存在するシナプスである。糸球体で僧帽/房飾(MT)細胞の樹状突起に興奮が生じた際に、その興奮は相反シナプスのうち興奮性シナプスを介して顆粒細胞に伝えられる。顆粒細胞の興奮は相反シナプスの抑制性シナプスを介して即座に僧帽/房飾(MT)細胞を抑制する事が明らかにされ、情報処理において、重要なシナプスであると考えられている。そこで、雌マウスの記憶にはこの相反シナプスの機構が重要であるとの仮説にもとづき、フェロモンの記憶との関わりを解析する事にした。また、鋤鼻系でシナプスの可塑性を調べる上で、刺激源であるフェロモンについての解析も必須である。そこで、フェロモンおよびフェロモンレセプターに関する研究を平行して行なった。
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この結果、交尾刺激は僧帽/房飾(MT)細胞を一過性に興奮させること、またテタヌス性電気刺激により僧帽/房飾(MT)細胞に長期増強が引き起こされることが、生理学的研究により明らかにされた。また、交尾後、相反シナプスのうち興奮性シナプスに形態変化がおきることが電子顕微鏡の解析により明らかになり、この変化は交尾後5日まで維持される。一方、相反シナプスのうち抑制性シナプスは交尾後5日-20日にわたって可塑的変化を示した。この相反シナプスの形態変化により僧帽/房飾(MT)細胞は、抑制を受けやすくなると推測される。このように、まず、興奮性シナプスが変化し、引き続いて抑制性シナプスが変化するという一連の変化により、フェロモンの長期記憶が維持されていると思われる。交尾刺激は、脳幹の青斑核から副嗅球に投射するノルアドレナリン線維により伝えられる。副嗅球スライスを用いた生理学的解析により僧帽/房飾(MT)細胞の脱抑制にノルアドレナリンが関わっていること、またノルアドレナリン受容体の局在に関する免疫細胞化学およびIn
situ ハイブリダイゼーションなど形態学的研究の結果から、ノルアドレナリンは僧帽/房飾(MT)細胞に作用している可能性が示唆された。おそらく、抑制シナプスのGABA受容体に働いて、この機能を抑制しているのであろう。これらの結果を総合すると、雌マウスは、交尾時にフェロモン刺激と交尾刺激を同時に受けることにより、副嗅球の僧帽/房飾(MT)細胞は,脱抑制による一過性の興奮をうける、この一過性の興奮により相反シナプスが形態変化を引き起こし、長期記憶の形成に導いているものとおもわれる。フェロモンの情報処理を担う鋤鼻系の研究については、情報処理に関わる分子群は海馬などと共通のものが多く、フェロモンの記憶などの際と海馬などでの記憶・学習などとは多くの点で共通の分子メカニズムを利用していると考えられる。従って、鋤鼻系は記憶・学習といった、神経科学の一つのターゲットに対する良いモデル系として捉えることが可能である。本研究で得られた結果は、鋤鼻系での情報処理機構や記憶成立機構の詳細を明らかにする上で重要な役割を果たすと期待でき、またフェロモン情報処理の特殊性の興味だけでなく、一般の記憶・学習現象への外挿という側面からも今後発展することが期待される。
各グループの研究概要は以下の通りである。 |
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(I)フェロモン記憶にかかわる可塑性シナプスの形態学的解析(市川グループ) |
フェロモン記憶に関わるシナプスメカニズムを明らかにする目的で、鋤鼻系副嗅球内の相反シナプスという機能的に重要なシナプスの可塑性に注目して形態学的手法を主にもちいて研究をおこない、以下の内容を明らかにした。
1) |
交尾時にフェロモン刺激と交尾刺激を同時に受けることにより、僧帽/房飾(MT)細胞は、から顆粒細胞への興奮性シナプスの後膜肥厚が変化する。この相反シナプスの形態変化により僧帽/房飾(MT)細胞は、抑制を受けやすくなると推測される。 |
2) |
交尾刺激がノルアドレナリン(NA)線維により副嗅球に作用する機構を明らかにするため、NA終末およびNA受容体の局在を調べ、NAは主に僧帽/房飾(MT)細胞に作用している可能性を指摘した。 |
3) |
シナプスの可塑的変化をリアルタイムで解析するため、鋤鼻ニューロンと副嗅球ニューロンの共培養系を確立して解析をおこなった。 |
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(II)フェロモン記憶の分子生物学および生理学的解析(椛グループ) |
交尾を契機として雌マウスに形成される雄フェロモンの記憶は、妊娠の成立に不可欠な、生存価の高い記憶であるとともに、記憶学習研究の優れたモデルとして有用である。なぜなら、フェロモン情報処理系(鋤鼻系)の最初の中継部位である副嗅球に生じるシナプスの可塑的変化と学習が直接に対応しているからである。交尾刺激により賦活されたノルアドレナリン神経の働きを引き金として、種々の情報分子が関わり、僧帽細胞から顆粒細胞への興奮性シナプスに可塑的変化が生じることを明らかにした。また、副嗅球のグリア細胞がフェロモンの記憶形成に重要な役割を果たしていることも明らかにした。フェロモン記憶の特徴を理解するための比較研究モデルとして重要視される、主嗅球の働きで成立する匂いの嫌悪学習にCREBの発現とそのリン酸化が関わることを明らかにするとともに、CREBのリン酸化へと導くキナーゼを同定した。 |
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(III)フェロモンの記憶学習の行動学的解析(森グループ) |
本研究の主たる目標は、これまでに成功例のなかった哺乳類におけるプライマーフェロモン分子の単離精製であった。研究モデルには、フェロモンによる明瞭な性腺刺激作用が証明されている反芻動物の“雄効果”現象を取り上げた。性腺刺激ホルモン放出ホルモン(GnRH)ニューロンの神経内分泌活動をシバヤギの視床下部より覚醒下でリアルタイムにモニターする独自の生物検定系を開発して、フェロモン活性成分の絞り込みを行った。その結果、強力なフェロモン効果を持つ雄ヤギの被毛や皮膚といった生物材料から活性分画を抽出することができ、構造決定と合成を繰り返すことで、候補物質を数種類の化合物にまで絞り込むことに成功した。同時に、このプライマーフェロモンの合成・分泌調節機構やフェロモン受容機構についても知見を得た。また、こうした研究成果を基盤に、情動系や行動表出系に及ぼす嗅覚系・鋤鼻系の役割を解明するための齧歯類での神経行動学的研究モデルを開発し、警報フェロモンの存在を明らかにした。 |
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(W)フェロモン物質およびフェロモンレセプターの解明(長田グループ) |
フェロモン受容の研究へのアプローチとして、フェロモン受容神経細胞の培養系開発が一つの有効な手段と考えられる。すぐれた培養系が開発できれば、そこにフェロモンやいろいろな試薬を加えたときのフェロモン受容神経細胞の変化を容易に観察でき、フェロモンとフェロンレセプターによる情報伝達系の研究が可能になる。ラットの鋤鼻器より細胞を調製し、培養系でも鋤鼻神経細胞の変成再生を再現できる系を開発することが出来た。また、副嗅球培養系との共培養系を確立した。 |
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(X)鋤鼻系シナプスの電気生理学的解析(佐原グループ) |
副嗅球における情報処理機構の解明とシナプスの可塑性の関与を明らかにするために、
1) |
副嗅球の僧帽/房飾(MT)細胞の形態と鋤鼻受容器からの入力の解析 |
2) |
副嗅球僧帽/房飾(MT)細胞と顆粒細胞の樹状突起間の相反シナプスでのシナプス電位の統合機構の解析 |
3) |
僧帽/房飾(MT)細胞の1次樹状突起におけるシナプス伝達の修飾機構の解析 |
4) |
シナプスの可塑性に関与する因子の解析 |
を、 副嗅球スライス標本を用いて、生理学と形態学的手法により行なった。 |
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(Y)シナプスおよびフェロモンレセプターの分子生物学的研究(山岸グループ) |
齧歯類の鋤鼻器特異的に2群の受容体遺伝子群が発現している。これらはフェロモン受容体と考えられているが、実際どのような分子を認識しているかは不明である。そこでこれら受容体のリガンドを検索する系を構築した。すなわち、アデノウイルスベクターに単離した受容体遺伝子を組み込み、鋤鼻神経細胞に効率よく感染させ、感染細胞内で受容体を発現させた。その細胞にフェロモンを含む分画を投与したところ、カルシウムイメージング法によって、雄尿特異的に反応する受容体感染細胞の反応を、検出することに成功した。 次に、様々な脊椎動物における鋤鼻受容体遺伝子群のクローニングと発現解析を行った。その結果、両生類では2型受容体群が、偶蹄類では1型受容体が鋤鼻器の情報認識に関わっていることが示唆された。このことは、鋤鼻器における2群の鋤鼻受容体群の発現様式が、種によって異なり、それぞれの動物種で認識されるフェロモン分子群のタイプ、及び鋤鼻細胞内の情報認識機構もそれぞれの種毎に異なる可能性を示す。 |
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(VII)鋤鼻系シナプスの解剖学的研究グループ(松岡グループ) |
動物がどのように外界からの刺激を受け止め、それを記憶するのかは興味深い問題である。近年、記憶機構の解明は大きなターニングポイントを迎えつつある、というのは刺激に依存したシナプスの形態や伝達レベルの変化が記憶の本質である可能性が広く認められるようになった。われわれも雌マウスに交尾時に生じるフェロモン記憶形成をモデルとして研究をおこない。その結果、長期記憶が異なった種類のシナプスの連続的な形態変化によって維持されている可能性を示した。また動物の感覚器を経由した自然な刺激に反応してその活性の上昇したシナプスを標識する新しいマーカーを発見した。これらの解析は今後の記憶機構の研究に有効な情報をもたらすと考えられる。 |