研究課題別事後評価結果

1.研究課題名
水素イオン能動輸送機構の構造生物学的解析
2.研究代表者名及び主たる研究参加者名(研究機関名・職名は研究参加期間終了時点)
研究代表者  吉川 信也  姫路工業大学大学院理学研究科 教授
主たる研究参加者  月原 冨武  大阪大学蛋白質研究所 教授
 島田 秀夫  慶應義塾大学医学部 助教授
 小倉 尚志  東京大学大学院総合文化研究科 助教授
3.研究内容及び成果
 ミトコンドリアでは、三種類の酸化還元反応に共役した水素イオン能動輸送機能を持つ膜タンパク質複合体酵素によって作られた水素イオン濃度勾配と、膜電位を利用して加水分解反応に共役する水素イオン能動輸送複合体酵素によって、ATPが合成されている。このエネルギー変換機構の全容を解明するために、X線構造解析法、赤外分光法、分子生物学的方法により、これら四種類すべての複合体酵素の構造と機能を解明することが本研究課題の目標である。ここでは、これら四種類の複合体酵素のうち反応機構の研究に著しい進歩があった、チトクロム酸化酵素に関する成果を中心として研究の概要を述べる。
 
1)O2還元機構
 本研究により決定された、完全還元型(このときO2が結合できる)のX線構造はCuB1+にヒスチジンイミダゾ−ル基が3個平面3角形型に配位しているを示している。この配位構造が酸素化型(Fe2+-O2)の安定性の主要因であることが明らかになった。これは本酵素による酸素活性化機構の解明のための最も重要な結果の一つである。さらに、CuBに配位しているHis240とTyr244が共有結合で連結され、その結果Tyr244のOH基がヘムa3に結合したO2と水素結合を形成できる位置に固定されていた。このTyr244は水素結合のネットワークでマトリクス側分子表面と連結されていた。この構造はヘムa3に結合したO2は Tyr244と水素結合を作り、CuB1+からの電子をTyr244を経由してO2に伝達することを示唆している。さらにTyr244は水素イオンをマトリクス側から汲み上げて、結合したO2に供与することができる。この酸性水素イオンによってFea33+-OOHを不安定化し、実質的にO2の4電子還元を実現すると考えられる。このようにして、酸素活性化機構をほぼ解明することができた。
 
2)水分子生成のための水素イオンとO2とH2Oの通路
 O2還元中心とマトリクス側とをつなぐ2つの水素結合のネットワークがX線構造に発見された。一つはマトリクス側分子表面にあるAsp91からメチオニンやグルタミン酸残基とそれらをつなぐ水分子で作られていた。もう一つはマトリクス側表面のグルタミン酸(Glu62)からメチオニン、リシン、スレオニンを経由し、CuBに配位したイミダゾ−ルに共有結合しているチロシンにつながっていた。また酸化還元中心からは膜面に平行に膜貫通領域の分子表面へのO2(あるいはH2O)の三つの通路が認められた。カルボキシル基修飾試薬であるDCCDが上述の(O2/ H2O)経路の一つに結合して、通路を完全に閉じることにより酵素活性を完全に阻害することが示された。従って、三つの通路のうち二つは水の通路、一つがO2の通路であることが明らかになった。さらにO2還元部位の膜間腔側に芳香族アミノ酸のクラスタ−が認められた。この構造は酸素還元中心から膜間腔側へは水素イオンも水分子も輸送されることはないことを示している。さらに、この結果はマトリクス側表面からO2還元中心への水素イオン輸送経路のどちらもが水素イオン能動輸送(プロトンポンプ)のための水素イオンの輸送経路ではないことを示している。
 
3)水素イオン能動輸送機構
 X線構造解析により、以下のような知見が得られた。膜間腔側分子表面近くに存在するAsp51の水素結合構造は酸化状態によって大きく変化し、還元によってカルボキシル基のpKaが5以下に低下することを示唆している。このカルボキシル基はヘムa側鎖のホルミル基に水素結合しているArg38に水素結合のネットワークで連結されていた。このヘムaのホルミル基とマトリクス側分子表面とは水が通過できる通路(水通路)でつながれていた。酸化に伴ってArg38のグアニジノ基は解離すると考えられる。さらにヘムa側鎖のヒドロキシファネシルエチル基が還元によって回転し、水通路の容積が増加することがX線構造解析によって明らかになった。これらの結果は次のような水素イオン能動輸送機構を示唆している。ヘムaが酸化されることによってArg38のpKaが大きく低下し、水素イオンが解離する。それが水素結合のネットワークを経由してAsp51のCOO-に輸送され、COOHを形成する。次にヘムaが還元されると水通路が大きくなるのでマトリクス側から水分子が吸い込まれる。またヘムa側鎖のホルミル基の正電荷の偏りは消失するのでグアニジノ基のpKaは大きく増加する。そのため、マトリクス側から取り込まれた水分子から水素イオンを引き抜く。一方、ヘムaの還元によりAsp51のCOOH基は分子表面に露出し水素イオンを膜間腔側に放出する。再び酸化されたとき水通路が収縮するので、OH-はマトリクス側に押し出され、Asp51のCOO-が分子内部に移動する。
 酸化型1.8Å 、還元型1.9Å 分解能では水素原子を検出できないので、赤外分光法により、アミノ酸側鎖の酸化還元に伴う水素イオン化状態の変化を検討した。その結果Asp51のカルボキシル基の水素イオン化はヘムaの酸化状態に制御されていること、Arg38のヘムaの酸化に伴う解離と帰属できる赤外スペクトル変化を検出した。
 Asp51が水素イオン能動輸送部位であることを機能的に証明するために、部位特異的変異体(Asp51Asn)をウシ/ヒトハイブリッド酵素として調製し、その機能を解析したところ、酸素還元能は野生型と同一であるが、水素イオン能動輸送能は完全に消失していた。
 これらの結果はAsp51を含む水素結合ネットワークとそれにつながっている水通路が、水素イオン能動輸送部位であることを示している。
 
4)NADH−ユビキノン還元酵素(複合体 I )の構造と機能
 ほとんどヘムタンパク質の混入の認められない標品の調整法を確立した。ユビキノン-NADH-NAD+-ユビキノールの順序で基質と反応生成物が結合、遊離することを明らかにすることが出来た。また、粉末X線回析像を示す微結晶も得られた。
 
各研究グループの成果
1.生化学グループ(吉川)、結晶学グループ(月原)
1)X線回析実験;SPring-8に超分子複合体専用ビームラインを建設し、1.54Å 分解能のX線回析斑点の測定に成功した。
2)酸化型2.3Å 、還元型2.35 Å 分解能のX線構造;専用ビームラインの稼動前に高エネルギー物理学研究所放射光施設で常温(8℃)でX線回析実験を行い、酸化型と還元型の構造決定を行った。その結果、His240とTyr244とが共有結合で架橋されていること、Asp51の立体構造変化がとらえられた。(Scienceに発表。)
3)酸化型1.8Å 、還元型1.9Å 分解能のX線構造(SPring-8で収集されたデ−タ); 前記以外に脂質の構造決定を行なった。カルジオリピン、フォスファチジルエタノールアミン、フォルファチジルグリセロール、フォスファチジルコリンがそれぞれ数個ずつX線構造に認められた。質量分析により、脂肪酸側鎖の構造がフォスファチジルコリン以外のリン脂質で均一であることが確認された。これはタンパク質部分がリン脂質の炭素側鎖も二重結合の位置も決定できることを示している。さらに、反応中間体(P型、F型)および配位子結合型の配位子の構造精密化を進めている。
4)静的赤外分光;低湿度条件でセルの光路長の変化をできるだけ防ぐことにより、1739cm-1にCOOHの、1585cm-1にCOO-に由来する吸収帯が認められた。これらはAsp51を含まない細菌の酵素には認められないため、Asp51に帰属することができる。またDO2/H2O変換効果を検討した結果、1670cm-1付近にArgのグアニジノ基と推定できる吸収帯も検出することができた。
5)複合体 I の構造と機能;他の二つの電子伝達複合体に比べて、機能と構造の研究が遅れている。その最大の原因は精製法が確立していないことにある。現在、再現性に問題はあるものの微結晶を析出し、粉末X線回析像を得た。
 
2.分子生物学グループ(島田)
 赤外分光学的回析のためには吸収帯の帰属が不可欠であり、同位体標識が必須である。そのために本酵素の無細胞遺伝子発現系を構築した。現在、収量以外の問題点はほぼ解明され、吸収スペクトル、活性ともに完全な酵素が発現される系が完成している。一方、前述のように、原核生物に保存されていないウシ酵素の部位特異的変異の効果を検討するため、ウシとヒトのチトクロム酸化酵素のハイブリッドをヒト細胞のミトコンドリア中に発現させることに成功した。
 
3.振動分光学グループ(小倉)
1)超高感度時間分解赤外分光装置の設計試作;アミノ酸残基の水素イオン化状態の酵素反応に伴う動的変化を追跡するため、共鳴ラマン分光測定に必要な程度の酵素濃度(〜25μM)でもタンパク質領域の赤外吸収の測定を可能にする装置を開発した。フェムト秒パルスレーザーの不確定性による白色光化を利用して約100cm-1程度の波数範囲の白色赤外光を作ることに成功し、最終的な調整段階である。
2)再構成膜小胞の調製;リン脂質二重層によって作られた小膜に呼吸鎖電子伝達複合体を組み込み、水素イオン能動輸送能を定量的に測定することに利用されている。水素イオンの漏れをほどんと完全に無視できる小胞体の調製法を確立した。その結果、呼吸調節比(Respiratory control ratio)が2.0程度のチトクロム酸化酵素標品でもH+/e-比は1.0を示し、水素イオンの漏れは無視できるほど低かった。
4.事後評価結果
4−1.外部発表(論文、口頭発表等)、特許、研究を通じての新たな知見の取得等の研究成果の状況

欧文誌論文 26報
2001年 Impact Factor Ranking の Original Article 38位、Review Article 30位までの雑誌に掲載された論文
Science        1報
 国内特許4件を出願した。海外についても出願準備中である。
欧文誌論文の数は、この分野としては少なくはないが、トップジャーナルへは1報のみであったのが寂しい。

4−2.成果の戦略目標・科学技術への貢献
 細胞内の通貨とも云うべきATPの合成に関わる反応をチトクローム酸化酵素を用いて、窮極の分子下過程として捉える事に成功した意義は大きい。極めて困難な仕事を日本の誇りであるSpring-8を活用して成し遂げた事は高く評価される。しかし、一方では、後半の仕事が発表に間に合わず、いわゆるトップジャーナルを飾ることが出来なかったのは惜しまれる。もう少し時間があれば可能であったであろう。戦略目標はまずまずの所。科学技術への貢献もこれからを待ちたい。
4−3.その他の特記事項
 研究代表者は平成10年にSocieta Italiana di Biochimica からErald Antonini Medalを、平成11年には英国のBiochemical Society からKeilin Memorial Medalを、慶応大学医学振興財団から慶応医学賞を受賞した。また、平成11年にはHarvard大学のWoodward Visiting Professorとして招かれた。
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This page updated on September 12, 2003
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