近年の分子遺伝学的解析の結果、がんはがん遺伝子やがん抑制遺伝子の変異により生じる遺伝子病であることが明らかになって来ている。従って、ヒト発癌の分子機構を解明するには、がんの発生母地である組織・細胞において、これらがん関連遺伝子の機能解析を行うことが必須となっている。本研究はマウス分子遺伝学の手法を駆使して、がん関連遺伝子変異の影響を個体内で解析し、発がんの分子過程を明らかにすることを目的とした。本課題の研究内容は、用いた手法により、1)ヒト発がんモデルマウスを用いたフォワード・ジェネティクスによる発がん制御遺伝子の単離・同定の試みと、2)コンディショナル・ジーンターゲティング法による発がん関連遺伝子の機能解析の2つに大別され、これらは共に、「APC遺伝子とWntシグナルによる発がん」を中心研究テーマとしているが、以下に各研究の成果を述べる。 |
1) | ヒト大腸腺腫症(FAP)モデルマウスを用いた発がん制御遺伝子の単離・同定: |
| APC遺伝子に変異を導入することにより作製したFAPモデルマウスにおける消化管腺腫の発生は、野生型由来近交系マウス(CAST/Ei)と交配することにより、約1/20まで減少する。戻し交配による大規模な遺伝学的実験とQTL解析により、CAST/Ei系マウスの染色体上の6ヶ所に、FAPモデルマウスの腫瘍発生を抑制する遺伝子座をマップし、さらにスピードコンジェニック系統の作製により、染色体10番及び15番上の2つの領域に関して、実際にFAPモデルマウスの腫瘍数を抑制する機能を持つことを明らかにした。染色体10番上の領域は、その後の実験で約3.0cMに絞り込むことに成功した。次いで、直接塩基配列解読によりその10番上の領域内の遺伝子の多型解析を行った結果、この領域内からの候補遺伝子の同定に成功している。一方、FAPモデルマウスの作製過程で、その発生腫瘍数が約1/50にまで減少するサプレッサー変異を有する変異マウス系統を得た。遺伝学的実験により、この責任遺伝子はAPC遺伝子近傍の約1.7cMの領域にマップされた。次に、DNAチップによる遺伝子発現解析と塩基配列の解読による解析から、この領域内のαカテニン遺伝子が候補遺伝子として同定されている。現在、このFAPモデルマウスの腺腫形成におけるαカテニンの役割について解析中である。 |
2) | コンディショナル・ジーンターゲティングによるWntシグナル関連遺伝子の機能解析: |
| アデノウイルス感染系(AxCre)によるコンディショナル・ジーンターゲティング法を用いて、マウスの各種上皮における発がんへのAPC遺伝子変異の関与について解析を行った。まず、マウス大腸においてもAPC遺伝子変異が実際に腺腫形成を誘導することを示し、その腫瘍ゲノムDNAの遺伝学的解析から、大腸上皮の腺腫化にはAPC変異のみで十分であることを示した。さらに、肝、胆、膵、肺、乳腺等の上皮におけるAPC遺伝子の不活化に成功し、その解析から、APC不活化は肝内胆管や胆のうの上皮細胞を癌化させること、又p53遺伝子変異と共存する時には、膵上皮細胞も癌化させることを明らかにした。これらの癌ではβカテニンの貯留が明らかであり、さらにcyclinD1の発現が見られるなどWntシグナルの活性化が認められた。一方、他の上皮細胞では増殖性の変化は認められなかった。これらの結果から、マウス個体内の各種腺上皮組織の多くで、APCはβカテニンの分解に機能しているが、組織によってβカテニンの貯留がWntシグナル活性化に直接つながる組織とそうではない組織が存在することを明らかにした。
一方、APC遺伝子のコンディショナル・ノックアウトマウスに加えβカテニン遺伝子のコンディショナル・ノックアウトマウス(CK)とコンディショナル・アクチベーションマウス(CA)を作製し、これらを各種組織で Cre 酵素を発現するマウスと交配し、各種組織において高い効率で各遺伝子を不活化、又は活性化することで、Wntシグナルの機能解析を行って来た。その結果、現在までに、乳腺上皮、皮膚、神経堤細胞由来組織、心筋におけるWntシグナルの機能と、そこでのAPC遺伝子の役割を明らかにすることが出来た。まず、乳腺上皮では、活性化型変異βカテニンを発現させると、導管のside branchingの誘導が見られ、さらに導管内腺腫が誘導されることから、Wntシグナルが乳腺の発達と乳癌の発生に機能することが示唆された。一方、皮膚では、まずβカテニン即ちWntシグナルが毛のうの発生に必須なことを明らかにし、次いでAPCがこのβカテニンの分解を介して、皮膚における毛のう領域を限局させることに機能していることを明らかにし、さらにWntシグナルの活性化が表皮基底細胞にアポトーシスを誘導することも明らかにした。神経堤由来組織では、顔面、頸部や心臓の一部の発生、発達においてWntシグナルが細胞増殖を正に制御していることを明らかにし、さらにAPCはこのWntシグナルを負に制御することで形態形成の制御を行っていることを明らかにした。いづれにしても、これらの腺上皮以外の上皮細胞や上皮以外の組織でも、APCがβカテニンの分解を行い、βカテニンがWntシグナルの活性化に機能していることが明らかとなったが、そうした細胞の多くではさらにアポトーシスの誘導が観察された点は、FAP患者における発がんの臓器特異性を考える上で非常に興味深い。最後に、心筋において特異的にAPCを不活化したマウスにおいても、若干のβカテニンの貯留とアポトーシスの出現が認められ、されにこれらのマウスは拡張型心筋症を起こして死亡することが明らかとなった。近年、心不全におけるWntシグナルの役割が注目されており、現在このマウスの詳細な解析を行っている。
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<グループ別の成果> |
| 以下の4グループを一体化して運営しており、前述の研究実施の概要にも全てのグループの成果が貢献している。そこで、本項目においては、前述の成果を上げる上での各グループの役割をごく簡略に述べ、さらにそれ以外の各グループの研究成果について述べる。 |
1) | 分子生物学的解析グループ: |
| 本研究の中心的役割を果たしており、前述の成果中の「発がん制御遺伝子候補のポジショナル・クローニング」や「Wntシグナル関連遺伝子のコンディショナル・ノックアウトマウスの作製と解析」を行った。また本グループは、Patched、TGFβtypeII受容体、Smad4、PDK-1、Tsc-2、Axinらの発がんに関与する情報伝達系の遺伝子群や、aPKCλ、ASIPといった上皮細胞の極性の決定に機能する遺伝子群のコンディショナル・ノックアウトマウスの作製を行い、これらを各種 Creトランスジェニックマウスと交配することで、これらのシステムが個体内の上皮組織において果たしている役割と、その発がんへの関与を解析した。さらに本グループは、Smad2、Tob1、Tob2、Caf1ら約20種類の発がん関連遺伝子のノックアウトマウスの作製、解析を行った。 |
2) | 遺伝学的解析グループ: |
| 本グループは、FAPモデルマウスを用いた発がん制御遺伝子の単離、同定の試みにおいて、大がかりな交配実験と遺伝学的解析により、その候補遺伝子座のマッピングを行って来た。また、各種腫瘍由来のDNAの遺伝学的解析により、発がん過程で染色体DNAに生じる変異の様式の解析を行ない、さらに最近は、ゲノムデーターベース解析による遺伝子探索を行った。 |
3) | 病理学的解析グループ: |
| 本グループは、前述のモデルマウスにおける発がん過程やノックアウトマウスの個体レベルの異常の組織学的解析を行った。本グループはさらに、培養細胞株を用いた発がん過程の解析を行い、「大腸腺腫の癌化へのステップへのLEF-1遺伝子発現の関与の発見」と「Wnt受容体結合分子群の単離、同定とその機能の証明」という、2つの大きな成果を上げている。 |
4) | 突然変異導入グループ: |
| 本グループは、前述3グループとは独立に仕事を進めており、本グループの研究成果は前述の成果には全く含まれていない。本グループは、まず、ジーンターゲティング法を用いて、マウス個体内で胚細胞や体細胞において突然変異が導入される分子機構を解析し、さらにその一部の遺伝子に関しては発がんへの関与の解析も行った。対象としては、EndoIII、Mlh1、OGG1などのDNAの修復遺伝子やWrnファミリーに属するWrn、RecQ1、RecQ4、RecQ5のヘリケーゼ遺伝子群、さらにはナイミーヘン症候群の原因遺伝子であるNbs1の遺伝子ノックアウトマウスを作製し、その解析を行って来た。 |