研究課題別事後評価結果

1.研究課題名
神経ネットワーク形成の遺伝子プログラム
2.研究代表者名及び主たる研究参加者名(研究機関名・職名は研究参加期間終了時点)
研究代表者野田 昌晴岡崎国立共同研究機構 基礎生物学研究所 教授
主たる研究参加者門松 健治名古屋大学医学部 助教授
 西塚 雅子順天堂大学医学部 講師(〜平成11年3月31日)
 大山 恭司慶応義塾大学医学部 助手(〜平成11年3月31日)
 清原 壽一京都工芸繊維大学繊維学部 教授(平成10年10月1日〜)
 山本 隆大阪大学人間科学部 教授(平成11年4月1日〜)
 宋 文杰大阪大学大学院工学研究科 助教授
(平成12年4月1日〜平成13年3月1日)
3.研究内容及び成果
 脊椎動物の中枢神経系は、1)神経芽細胞の増殖・分化、2)細胞移動、3)神経軸索の伸長路決定、4)標的部位の識別、5)シナプス結合の形成と維持、6)細胞死、7)シナプス結合の可塑的変化といった一連の過程によって完成、維持される。また、完成した神経系が機能するためには多くの受容体やイオンチャンネル等の素子が重要な働きをしている。本研究ではこれらの分子機構を総合的に理解することを目指して3つのサブグループに分かれて取り組んだ。
 「網膜視蓋投射グループ」では脳・神経系における領域特異的神経結合形成の分子機構を明らかにすることを目指した。脳神経系の発生過程において正確な神経回路網を形成することは、成長後の成体において高次の神経機能を発現する為に必須の構造的基盤となっている。中枢神経系では、ある神経細胞集団が軸索をのばして標的となる細胞集団に神経結合を作る時に、トポグラフィックな投射(topographic projection)様式がしばしば見られる。トポグラフィックな投射においては、ある神経細胞集団から発した軸索が互いの二次元的相対位置関係を保った形式で標的細胞集団とシナプスを形成する。あたかも個々の神経細胞は集団における自らの位置を知っているかのようである。このようなトポグラフィックな投射がどのようにして形成されるかを明らかにすることは、神経発生生物学上で非常に重要な課題である。トポグラフィックな投射の研究においては鳥類や両生類における網膜視蓋投射系が有用な系として用いられてきた。なかでもニワトリは、目が大きく視覚系が良く発達していること、さまざまな胚操作が比較的容易に行えるなどの理由から、格好のモデルシステムとなっている。この系では網膜内で鼻側由来の視神経は視蓋の後側に、耳側の視神経は視蓋の前側に投射する。また、背側視神経は視蓋の腹側に、腹側視神経は視蓋の背側に投射する。
 我々は最初に網膜において領域特異的(topographic)な発現をする分子群を網羅的に同定することから始め、引き続いてその分子機構を明らかにすることを目指して、RLCS法を用いて大規模な探索を行った。発生上の時期としては視神経が視蓋上の標的部位を探索するE8の網膜を用いた。約2万を超えるcDNAをスクリーニングした結果、前後軸方向に53分子、背腹軸方向に20分子を同定した。これらの分子は分泌因子、転写調節因子、受容体分子、酵素、細胞内シグナル伝達分子、細胞骨格関連分子等に分類された。これらの分子は過半数が新規分子であったが、この中に、EphR、ephrin 分子を始めとする既知の topographic 分子群も含まれており、この方法の有効性が証明された。また、E8の網膜を用いて探索したにもかかわらず、眼の発生初期のE2あたりを発現ピークとする分子も含まれており、予想外に広い時間軸をカバーする分子群が単離され、網膜の発生過程における前後・背腹の軸決定から領域特異化、そして領域特異的神経結合の形成に関わる一連の遺伝子カスケードを構成する分子群が同定されたと考えられる。新規分子の内、これまでに分子機能を明らかにした幾つかを紹介する。レチノイン酸は眼の形成に必須の物質であり、生体内ではビタミンAから生合成される。ビタミンAやレチノイン酸が欠乏すると眼の形成不全が起こることが知られているが、それは特に眼の下半分(腹側)において顕著である。我々は網膜腹側で発現するレチノイン酸合成酵素(RALDH-3)を同定し、この遺伝子が眼の形成のマスター遺伝子である Pax6 の下流に位置することを明らかにした。また、網膜において唯一、前後・背腹両軸方向に対して勾配を持って発現する分子 ventroptin を発見した(E2〜E6では腹(高)−背(低)の勾配を、E6からは腹/前(高)−背/後(低)の勾配を示す)。本分子はBMP-4の中和因子であり、かつBMP-4の発現を抑制する活性があることを明らかにした。異所的強制発現の結果、ventroptin はBMP-4と協調して網膜の背腹軸決定(E2)に関わった後、引き続いてE6から起こる前後軸、背腹軸両方向における網膜視蓋投射を制御することが明らかになった。ventroptin の存在は、これまで独立であると考えられてきた前後軸、背腹軸方向の投射制御が協調的に進む現象であることを示している。
 「チロシンホスファターゼグループ」では脳・神経系に発現する受容体型 PTPase の内、R5サブファミリーを構成するPTPζとPTPγを取り上げ、脳形成及び脳機能における役割を解明する研究を行った。この研究は脳の発達における細胞外マトリックス分子の重要性に着目し、脳個有の細胞外マトリックス分子であるプロテオグリカン(PG)の役割を明らかにすることに研究の端を発している。
 我々は脳のコンドロイチン硫酸プロテオグリカンの中で最も分子量が大きく、発現量も多い分子である6B4 PGのcDNAクローニングを行った。その結果、驚いたことに、これがPTPζの細胞外領域に相当するスプライシングアイソフォームの1つであることが判明した。その後3つのPTPζのアイソフォーム全てがコンドロイチン硫酸PGであることが明らかになった。本研究ではPTPζの役割を分子生物学的、生化学的手法を駆使して1つずつ明らかにしてきた。PTPζのリガンドとしてプレイオトロフィン、ミドカインを同定するとともに、これらが神経細胞の移動を誘導することを示した。また、PTPζのC末に主にシナプス後膜に存在するPSD-95ファミリー分子が第二PDZドメインを介して結合することを明らかにした。更にyeast substrate-trapping system を開発し、PTPζの基質としてGIT-1を同定した。また、PTPζノックアウトマウスの解析から、海馬LTP、ドーパミン神経系に異常があることが判明した。予想外の展開としては、PTPζが少量ながら胃の粘膜上皮細胞等にも発現していること、またH. pylori 菌の分泌する VacA 毒素がPTPζに結合することが明らかになった。加えて、PTPζノックアウトマウスではWTマウスと異なり、VacA 投与によって全く胃潰瘍を発症しないという知見を得た。これについては現在、論文を作成中である。
 「遺伝子ノックアウトマウスグループ」では、主に、機能不明のNaxチャンネル(これまでNaG、Nav2等と呼ばれていた)の機能を明らかにする研究を行った。Naチャンネルはこれまで10個の遺伝子が同定されているが、本チャンネル分子以外は電位依存性チャンネルであることが報告されている。この分子はcDNA発現系を作った機能解析が成功しておらず、機能が不明のまま残された唯一のNaチャンネルである。我々は世界に先駆けてNaxチャンネル遺伝子ノックアウトマウスを作成し、その表現型からその機能に迫るという戦略を取った。Naxノックアウトマウスの解析からNaxが中枢の体液塩分濃度の感知に関わることを明らかにするとともに、NaxがNaイオン濃度の上昇を感知して開くイオンチャンネルであることを示した。また、このグループは脳内の種々の知覚情報処理回路を選択的に可視化したマウスを作成することに成功した。
4.事後評価結果
4−1.外部発表(論文、口頭発表等)、特許、研究を通じての新たな知見の取得等の研究成果の状況
 以下の3プロジェクト、1)網膜視蓋投射、2)チロシンフォスファターゼおよび3)遺伝子ノックアウトについて研究を進めた。すなわち、網膜視蓋投射グループは網膜に領域特異的な発現をする分子群の RLCS 法によるスクリーニングにより、前後軸と背腹軸の両方に勾配を持って発現する Ventroptin 分子を発見し、これが前後・背腹・両方向における網膜視蓋投射を制御することを明らかにした。また、脳個有の細胞外マトリックス分子の中で主要な成分であるチロシンフォスファターゼ PTPζの基質が GIT-1 であることを示し、ピロリ菌の分泌する毒素 VacA が PPTζに結合することを示し、ピロリ菌による胃潰瘍に PTPζおよび GIT-1 が関与していることを明らかにした。さらに遺伝子ノックアウトマウスグループが機能不明の Nax チャンネルが飲水行動に関係の深い脳室周囲器官に発現し体液の Na 濃度を検知するセンサーとして働いて塩分摂取を調節することを発見した。
 当初の研究構想を遂行する過程で、思いがけない大発見(いわゆる serendipity)があった。研究構想も順調に進められ、当初の目標はほぼ全部達成されている。
 国際誌への論文発表が殆んどで、質が高い。IF の高い学術誌に多数の論文が発表された。 Nature, Science(各1編)をはじめ、Neuron(1編)、PNAS(3編)、J. Cell Biol., J.B.C., Eur. J. Neurosci.、J. Neurosci. などインパクトファクターの高いジャーナルにオリジナルの論文を発表している。
 特許も国内3件、国外2件を出している。特許出願したものは有望であり、将来工業化の可能性がある。
4−2.得られた研究成果の科学技術への貢献
 メインテーマはもちろん、PTPζと胃潰瘍の関連が興味深い。Nax チャンネルの機能の解明はインパクトの高い研究である。中枢神経の特定の回路を遺伝子工学的に可視化する方法を考案し、トランスジェニックラインを作ったことは技術的インパクトが大きい。
 「GAP-lacZ リポーター遺伝子を用いる神経可視化法」、「PTPζ活性促進又は抑制物質のスクリーニング法」、「Nav2 チャネル遺伝子欠損非ヒト動物」のいずれの特許出願も応用の可能性がある。
 網膜において領域特異的な発現をする分子群を網羅的に同定して目的の分子を発見するという方法はオーソドックスで高い水準の研究である。分子生物学の技術の見事な応用とその成果は国際的に最高水準にある。
 独創性が非常に高い、ventroptin の発見、PTPζ の基質 GIT-1 の同定、ピロリ菌毒素 VacA の胃潰瘍発生機序(副産物であるが)、Nax の濃度依存性 Na チャネルである発見などについて、重要なポイントを解明している。感覚情報経路を特異的に可視化できるマウスの作成も興味深い。
 領域特異的投射のメカニズムと層特異的投射のメカニズムについて大脳皮質感覚野などに研究領域を広げればさらなる展開が期待できる。PTPζノックアウトマウスとピロリ菌毒素の結合の関連や Nax チャンネルの分布など興味ある知見が次々に得られているが、対象が広範におよび個々の研究の掘り下げがやや不足している。散漫にならないように焦点を絞るべきである。軸索可視化マウス、PTPζ遺伝子欠損マウス、Nax 遺伝子ノックアウトマウスなど今後の発展が非常に期待できる。
4−3.その他の特記事項
  網膜視蓋投射グループ、チロシンホスファターゼグループ、遺伝子ノックアウトマウスグループが「神経ネットワーク形成の遺伝子プログラム」のテーマで協調して活動してきた。若い多くの研究者が育っている。研究代表者のリーダーシップがよく発揮された。三つのサブグループがそれぞれ独立に研究して成果を上げたケースである。
 設備費は初年度H8に多いのは当然である。H9〜H13人件費とそれに見合う他の費用(running cost )が使われている。設備費、人件費、材料消耗品費がバランスよく使われ、多くのポスドクによって成果が挙げられた。
 精力的に研究を行って成果を挙げた。複雑なメカニズムが特異的分子の発見で決着がつく典型的な例である。Nax 遺伝子、PTP 遺伝子の多角的解析など十分評価できる。五年間グループリーダーが先頭に立って研究に専念された成果だと思う。
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