研究課題別事後評価結果

1.研究課題名
運動指令構築の脳内メカニズム
2.研究代表者名及び主たる研究参加者名(研究機関名・職名は研究参加期間終了時点)
研究代表者河野 憲二電子技術総合研究所 主席研究官(〜平成13年3月31日)
  産業技術総合研究所 脳神経情報研究部門 部門長
(平成13年4月1日〜)
主たる研究参加者飯島 敏夫電子技術総合研究所 総括主任研究官(〜平成13年3月31日)
  東北大学医学部 教授(平成13年4月1日〜)
 五味 裕章NTT総合研究所 研究員
3.研究内容及び成果
 生体の卓越した運動制御の能力は如何にして実現されるのか?本研究では眼球運動及び、上肢の運動の制御が脳内のどのような部位のどのような情報処理の結果として実現されているのかを明らかにすることを研究の目標として設定し、神経生理学、行動学、脳活動の光計測法、計算論的神経科学の各手法に通じた研究グループを有機的に構成し、脳内の活動を非侵襲的に画像化するfunctional MRI装置も利用して、この課題の解明に取り組んだ。
 単純な運動系として眼球運動のうちでも、追従眼球運動を研究の対象として選び研究を進めた。"追従眼球運動" は広い視野全体が突然動く事によって誘発される、潜時が非常に短い視覚性追跡眼球運動である。この追従眼球運動は、体が左右あるいは上下に動いたときなどに起こる視界のぶれを防ぎ、視覚機能を常によい状態に保つのに役立っていると考えられる。視野の動きの情報(感覚情報)によってこの眼球運動が生じるには、感覚から運動への情報変換が必要であるが、脳内における情報処理過程の詳細は明らかではなかった。この追従眼球運動の発現に関与している大脳MST野、橋核、小脳を含む経路で、どのように運動指令が構築されているのかを明らかにするために、入力である感覚情報と出力である運動情報がこの3つの領域の単一ニューロンの発火の時間パターンにどのようにコードされているか解析し、情報処理の異なる段階にあると考えられる脳内領域間の比較を行った。大脳MST野と橋核のニューロンの発火パターンは、入力情報である網膜上の像の動きと密接な関係があり、小脳の出力細胞であるプルキンエ細胞の単純スパイク発火パターンは、出力情報である眼球運動と密接な関係にあることが明らかになった。
 小脳のプルキンエ細胞の発火には、苔状線維入力によっておこる単純スパイクと、登上線維入力によっておこる複雑スパイクである。追従眼球運動を起こした時のプルキンエ細胞の方向選択性を調べると、単純スパイクは下方向かあるいは記録側と同方向の刺激に選択的に反応し、複雑スパイクは上方向かあるいは記録側と反対方向の刺激に選択的に反応することが明らかになった。また,単純スパイクと複雑スパイクの視覚刺激や眼球運動に対する反応は鏡像関係を持つことが分かった。これらのことから、追従眼球運動を起こすには、視野が動いた時に、感覚情報から"視野の動きの検出" が行われ、大脳MST野や橋核の1つ1つのニューロンがその情報をコードし、これらのニューロン活動が、小脳のプルキンエ細胞で収束して眼球運動指令が構築され、このプルキンエ細胞からの出力によって眼が動く、これが追従眼球運動であることがわかった。そして、この小脳皮質内のプルキンエ細胞上で起こる感覚から運動への情報変換による運動指令の構築に、複雑スパイクが重要な役割を果たしていることが示された。
 さらに、やや複雑な眼球運動として、輻輳開散運動を対象とし研究を行った。輻輳開散運動は、ある物体を見る時に両眼の網膜像を融合させるために、その物体上に両眼をそろえる重要な眼球運動である。より近くにあるものを見るときには輻輳運動が起こり、一方、より遠いものを見るときには開散運動が起こる。視覚刺激に、この眼球運動が起こるための重要な手がかりの一つである両眼視差をつけて提示し、眼球運動と、大脳MST野のニューロン活動を記録、解析した。
 記録した大脳MST野の単一ニューロンのうち102個の視差に対する反応のチューニング・カーブは4つのグループに分けることができた。これらのニューロン集団の反応と輻輳開散運動の関係を調べるため、ニューロン集団の反応の視差に対するチューニング・カーブを加算してみた。大脳MST野から記録したすべてのニューロン活動の視差のチューニング・カーブの集団としての和は、それぞれが記録されたサルの輻輳開散運動の視差のチューニング・カーブとほぼ一致した。さらに、反相関視覚刺激(左右の眼で見るランダムドット像の黒と白を反転させたもの)を用いて、ニューロン活動と輻輳開散運動の関係をより詳しく調べたところ、反相関の視覚刺激の場合でも、大脳MST野のニューロンのチューニング・カーブの集団としての和は、輻輳開散運動のチューニング・カーブと一致した。反相関視覚刺激パターンの視差は奥行き知覚を生じさせないことが知られており、これらの結果は、大脳MST野の視差の変化に反応するニューロンが奥行き知覚よりは輻輳開散運動のコントロールに関係していて、ニューロン集団として輻輳開散運動の視差に対する特性をコードしていることを示している。
 より複雑な上肢の運動の制御機構を明らかにするため、上肢の到達運動を研究の対象として、追従眼球運動の系で明らかにした小脳の役割が上肢の運動の場合でもあてはまるのかについて研究を進めた。その結果、複雑スパイクが、1) 運動の開始時には「行く先」を、2) 運動の終了直後には「相対的な誤差」に関する情報を表現しているプルキンエ細胞群を小脳半球の第5小葉を中心とする領域で見出した。この結果は複雑スパイクの発火が運動の開始のみならず運動の終了のタイミングとも密接に関連することを示すと同時に、運動の誤差も表現していることを示唆している。次に、運動制御の信号であると考えられている単純スパイクが表現している情報を解析した。その結果、単純スパイクは運動の「行く先」の情報を運動開始直前から終了後300ミリ秒に至るまで、運動の全期間にわたって保持していることが明らかになった。また、プルキンエ細胞の一部では単純スパイクが運動の後半から運動の誤差を表現することも明らかになった。
 様々な改良を重ねた光計測装置により、超高速イメージングが可能となり、上肢の到達運動時のサルの一次運動野の活動を観察した。運動開始のシグナルを提示すると肩、肘、手首等の運動を惹起する神経細胞群が順次、連続的に興奮を引き起こす様子が描画された。運動はそれら神経活動の開始に約20ミリ秒遅れて発現した。又、運動準備期の活動を運動前野から記録すると運動前野背側部の後方部において神経活動が光学的に記録されたが、興味深いことに左右の到達目標の違いによりそれぞれ、空間的に異なる部位に神経興奮が認められた。この計測法は、今後この分野のみならず、幅広い脳研究分野で大きな威力を発揮できると考えている。
 上記のように、眼球運動、上肢の運動ともに生理学、行動学的研究と計算論的神経科学の手法をうまく組み合わせ、研究をすすめることができ、運動指令構築の脳内メカニズムの一端を明らかにすることができた。
 これらの動物実験で得られた結果をヒトの運動制御機構と比較するために、MRI装置を用いた機能的 MRI 研究も行った。この研究過程で、今まで画像に歪みが生じ正確な計測が困難とされてきた部位の画像化に大いに貢献できる手法を開発することができた。この手法は本研究グループのみならず、国際的なレベルで、functional MRI研究に貢献できるものであると考えている。
4.事後評価結果
4−1.外部発表(論文、口頭発表等)、特許、研究を通じての新たな知見の取得等の研究成果の状況
 運動指令構築の脳内メカニズムを解明するという当初の研究構想で眼球運動については輻輳運動のように今まではほとんど研究されていなかった運動について入力から出力までの符号変換の過程を明らかにし、小脳プルキンエ細胞の活動が運動信号を忠実に反映していることを示し、これが小脳の計算的モデルから算出した予想値と非常によく一致することを示して、大脳皮質と小脳を含む神経回路による運動制御のメカニズムの範例となる研究成果を得た。
 動く対象を眼で追う追跡眼球運動と空間内の対象に手を近づける到達運動など精密な制御を必要とする随意運動の制御に大脳皮質の高次視覚野と小脳がどのように関与しているかを単一ニューロン活動の分析によって解明する研究で大脳 MST 野のニューロン群の発火パターンの総和が入力記号とよく一致し、小脳のニューロン群の発火は眼球や手の運動とよく一致することを証明した成果は随意運動制御の典型例として重要である。
 北澤グループはサル腕到達運動の小脳メカニズムを解明した。飯島グループはfMRI および光学的計測を用いて、ヒトおよびサルの大脳の活動を画像化した。計算論的研究は研究の理論的側面を支えていた。また小脳と大脳皮質運動関連野の研究は将来、手の運動制御のメカニズムの研究に発展させるために寄与している。
 分子生物学的研究と異なり、論文の量産はできないが、レベルの高い論文を着実に発表した。Nature(1編)をはじめ J.Neurophysiology(5編)、Comp. Neurol.(1編)、J.Neurosci.(1編)など一流雑誌に成果を発表している。国際学会でのポスター発表が早く論文になることを期待している。
 “fMRI の画像データの改善”について国内特許が出ている。特許の出しにくい研究であり、特許が少ないのは止むを得ないと思う。
4−2.得られた研究成果の科学技術への貢献
 生理学的研究と数理科学的解析を組み合わせることによって精密な随意運動の制御のメカニズムを解明するという研究方法の正しさが証明された。単一ニューロン活動の記録などの電気生理学は、分子生物学的アプローチと比べて、労多くして功が少ない傾向があるので敬遠されがちであるが、地味な研究でも極めて重要である。Knockout/transgenic mice の研究でも phenotype の詳細は電気生理学的方法でないと解決しない。本研究で開発した fMRI の Z-shim 法による画像データの改善方法は部位の画像化に貢献するものである。この分野の研究としては群を抜いていて、国際的な評価も高い。
 地味な研究であるが国際水準からみて非常に高い。精緻な解剖学的、生理学手法による単一ニューロンからの情報による機能面の研究成果は貴重である。追従眼球運動と特異的に関連しているニューロンを集めよくコントロールされた刺激に対する反応を定量的に分析した非常に密度の高い研究である。電気生理学的成果を計算論的に解析し、光学的計測法やfMRIなどの手法も取り入れ、多角的に研究をおし進め着実に成果を挙げており、国際水準に照らしてレベルは極めて高い。
 今回得られた結果は精密な知覚的制御を要する随意運動全般に共通するメカニズムを示している。実験データの精度、計算論的な解析の明確さ、共に優れており、特に感覚入力から運動出力への変換が小脳プルキンエ細胞で行われるメカニズムと複雑スパイクの役割を明確に示した点は重要である。複雑な筋運動制御メカニズムの解明も進んだ。大脳や小脳の細胞発火パターンによるシミュレーションの解析は面白いがイボテン酸注入などによる障害をより詳細に分析すると理論のみならず神経疾患にも関連するデータが得られると考える。
 眼球運動系と上肢到達運動系の研究を関連させて実施し、生理学的な実験結果を計算論に基づいて解析する本研究のアプローチは、追従眼球運動のみならず、他の種々の脳内情報処理過程の解明に、より広い応用が可能と考えられる。もっと広く眼・手協調運動や手の熟練運動の制御メカニズムの解明につながる研究に発展することが期待される。ヒトへの展開を計画しており、期待できる。
4−3.その他の特記事項
 河野グループの生理学・行動学・免疫組織化学の研究、飯島グループの fMRI を用いた研究と脳活動の光学的計測の研究、五味グループの計算論的研究モデル、の3グループの研究が同一目的に向って適切に遂行された。
 この研究は意識的知覚に基づく運動制御が頭頂連合野と小脳を介する大脳・小脳関連回路で行われていることを明らかにした研究として画期的である。研究代表者が述べているように「認識」の脳内メカニズムにアプローチするにはまだ距離があるのはやむを得ないとして手と目の協調運動などで知覚とより密接した「知覚的運動制御」という側面をさらに追求して欲しい。
 生理実験と計算論によるモデル実験が見事に一致していて胸のすく思いがしました。管理職などに煩わされないで実験を続けて下さい。
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This page updated on April 1, 2003
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