研究代表者 | 井原 康夫 | 東京大学大学院医学系研究科 教授 |
主たる研究参加者 | 柳澤 勝彦 | 国立長寿医療研究センター 部長 |
岩坪 威 | 東京大学大学院薬学系研究科 教授 | |
上山 義人 | 実験動物中央研究所 室長 | |
山口 晴保 | 群馬大学医学部 教授(平成11年4月1日〜) | |
安原 正博 | 京都府立医科大学法医学 教授(平成10年4月1日〜) |
アルツハイマー病 (Alzheimer's disease,AD)の神経病理学的特徴は、老人斑と神経原線維変化 (PHF) である。老人斑は、アミロイド線維塊から成り、その主要成分は分子量約 4,000 のβタンパク(Aβ )と同定され、PHFの主要成分は微小管結合タンパクの 1 つである tau と同定された。以上の二つの病変の時系列を決めるために、各年齢のダウン症候群患者の脳が分析され、その結果Aβ → ・・・→ tau という病理カスケードが確立している。
本プロジェクトの目的は細胞外のAβ 沈着と細胞内 tau 沈着の意義を解明することである。Aβ は凝集するとin vitroでは神経毒性を示すようになる。したがって、Aβ が何故脳内では細胞外に沈着するのかが現在の研究の焦点となっている。本研究ではまずヒトにおいてどのような経過を経て蓄積してくるのか解析するとともに、これまでに注目されていなかった脂質との関連を作業仮説としてとりあげ検証に努めた。神経原線維変化としての tau の細胞内凝集は神経細胞の脱落と直接的な関係があることが知られている。ここでは、この tau の細胞内凝集が神経細胞変性の最終段階の結果であるという仮説を検証することを試みた。 β アミロイド沈着は、Aβ 特異抗体を用いて免疫組織化学的に鋭敏に検出できるようになり、老人斑形成は、一般人口ですでに50歳台からはじまることが知られるようになった。さらに最近では、ELISA (enzyme-linked immnosorbant assay) を用いた定量法によって、免疫組織化学的に老人斑が検出できない時期にすでにAβ が生化学的には蓄積していることが見出された。これは、老人斑形成はすでに先行するAβ のホメオスタシスの破綻の結果であることを示唆する。 20歳から80歳までの(非痴呆患者例の)剖検脳内のAβ の定量をおこなった。その結果、以下のことが判明した。1)正常脳においても、不溶性画分にAβ が存在し、そのレベルは、Aβ 40は約5 pmol/g、 Aβ 42は約0.5 pmol/gであった。したがって、不溶性画分のAβ は、必ずしも異常な産物ではなく、正常脳における正常な代謝産物である。2)この不溶性画分のAβ 42が40歳台後半から急激に上昇し、この増加は70歳位まで続き、その後プラトーとなる。3)Aβ 40の上昇程度は低いが、Aβ 42値と強い相関がある。4)・4 alleleが存在すると、Aβ 42蓄積のカーブが左方にシフトする;すなわち、早期にAβ が立ち上がる。以上の観察結果から、第1に、脳の不溶性画分に存在するAβ 42がアミロイド蓄積のもとになるらしいことが明らかとなった。 Aβ が蓄積を開始した脳の不溶性画分の中には、種々の細胞内コンパートメントが存在するが、その性質がある程度明らかとなっているのは、低密度膜ドメイン (low-density membrane domain, LDM domain) のみであろう。ヒトニューロブラストーマ (SH-SY5Y) を1% Triton X-100 中でホモジェネートしたものを蔗糖密度勾配法で分画すると、5/35%界面に低密度膜ドメインが回収され、ここに (Triton-insoluble) Aβ の約50%が存在する。正常のヒト脳を同様に分画すると、ニューロブラストーマの場合と同じく、低密度膜画分にAβ 40, 42が検出される。さらに、脳内で不溶性Aβ 42が蓄積するにつれ、この画分のAβ 42が高値を呈するようになる。多数例で検討すると、低密度ドメインのAβ 42の量は細胞外に蓄積したAβ 量と非常によく相関した。さらにこの相関は、PDAPP miceでも確かめられた。このことは、脳内Aβ 42蓄積の少なくとも一つのpathwayは低密度膜ドメインを介してということを示唆する。 PHF の骨格が tau の微小管結合ドメインからなることがすでに1992年に示された。 これによって PHF の謎の1つは明らかになったが、何故 tau 同士が重合するのか、言い替えればどのような細胞内環境の変化によってこのような tau の重合がおこりえるのかは全く不明である。またこの点が(PHF は AD 病変の最終的帰結である神経細胞脱落と密接に関係しているので)ADにおける神経細胞死を理解する上で非常に重要である。以上を念頭に、ヒトFTDP-17 (Frontotemporal dementia and parkinsonism linked to chromosome 17) 脳内の蓄積物質に関してタンパク化学的解析を試みた。対象として、P301L, R406W 脳を選んだ。前者の発症年齢は後者に比して早く、経過も後者に比して進行が早い。解析にて得られた所見は以下のことを示唆すると考えられる。 1)Diffuse tangleは早期の神経細胞脱落に、mature tangle はむしろ神経細胞生存・維持に関係しているかもしれない; 2)P301L脳の可溶性画分において mutant tau のレベルが低いのは mutant tau の微小官結合能が低いため、細胞内で分解されやすいためである。一方、沈着が mutant tau からのみ構成されていることは、P301 tau が微小管に結合しない割合が高いこと、また凝集能が高いため、と考えられる; 3) R406W tau のSer-396, 404(微小管結合領域に近い)におけるリン酸化の程度が低いのは、Arg が大きな Trp に置き換わったための steric hindrance のためによるもので、tubulin または微小管が喪失すると、それが解除されて、wild-type tau と同様のランダム構造になるのでリン酸化される。このことは、リン酸化は、細胞変性の原因ではなく、細胞変性の結果であることを示唆している。 柳澤グループは、主にAβ aggregation の機構およびApoEの作用機序に焦点を当てて研究をすすめた。Aβ の凝集開始時点に seed として働くことが想定されるGM1ガングリオシド結合型Aβ (GM1-Aβ )の形成機構について物理化学的検討を加え、GM1ガングリオシドが存在する膜内のコレステロール濃度が高い条件においてGM1-Aβ の形成が促進されること、またGM1-Aβ による可溶性Aβ の凝集促進作用は抗GM1-Aβ 抗体により特異的に抑制されることを確認した。 ApoEのAD発症促進作用を本蛋白の生理機能であるコレステロール代謝調節の視点から明らかにすることを目指した。リコンビナントApoE(ApoE2、ApoE3およびApoE4)を培養神経細胞に作用させ、その神経細胞コレステロール代謝に及ぼす影響を評価した。次に、ApoEの神経細胞コレステロール代謝調節に関するアイソフォーム特異性は、細胞表面からの脂質分子引き出し(efflux)において発揮されることが確認された。またAβ 産生におけるプレセニリンの役割をγ-セクレターゼ活性調節機構の視点から検討し、これまでにγsecretase調節因子スクリーニングシステムを確立し、同酵素活性を修飾する遺伝子を複数クローニングすることに成功した。 岩坪グループは、AD原因遺伝子のひとつである presenilin (PS) 2のAβ 分泌への影響を詳細に調べた。さらにPSが β APPを切断する γ-セクレターゼとして作用するにはカルボキシ末端の特定アミノ酸配列に依存して形成される高分子量複合体を形成することが必要であることを明らかにし、複合体形成に必須なアミノ酸配列として Pro-Ala-Leu-Proからなる高度に保存されたPALP 配列を同定した。 上山グループは、各種アルツハイマー関連遺伝子を導入したトランスジェニック、ノックインマウスを作製、飼育した。 |
アルツハイマー病の神経病理学的特徴である老人斑と神経原線維変化の発生メカニズムをアミロイドβ 蛋白(Aβ )の沈着と tau 蛋白の沈着としてとらえ神経細胞の変性に至るメカニズムを明らかにしようという大きな目標をかかげた研究で着実な成果を上げたといえる。特に研究開始後に新たに発見された原因遺伝子の機能的役割の解明に貢献する研究が出来たことは大変よかった。
研究代表者が述べているように tau 蛋白と細胞死の関係の解明と老人斑と神経原線維変化の因果関係の解明が充分進まなかったので当初の研究構想から見て非常に満足できるとはいいがたい。しかし、細胞内 tau 沈着については、ヒトFTDP-17脳をオランダの brain bank から供与をうけて解析し、新しい知見を得つつある。PS2 transgenic mice は成功して、mutant でAβ 42が上昇することを立証した。tau transgenic mice は病態発症の観察に至っていないが、長期飼育が必要である。AD解明への決定的な道筋は今後に残されている。 柳澤グループはアルツハイマー病発症促進作用を持つ ApoE 蛋白とコレステロール代謝の相互作用の解析を進め、Aβ と脂質分子との相互作用が神経細胞死を誘導することを示唆するデータを得た。また、岩坪グループがアミロイドβ 蛋白産生の最終段階を担うγセクレターゼとアルツハイマー病の原因遺伝子プレセニリンの関係を明らかにした功績は大きい。上山グループの transgenic/knockin mice の作製の研究は、他のグループと協力して、アルツハイマー病の分子機構の解明に見事な貢献をしている。ヒト脳の研究は、brain bank が必須であり、山口グループと安原グループとが井原グループへの脳の提供を支援した。 JBC, Am.J.Pathol. などの国際一流誌に連続して着実に重要な新知見を報告している。欲をいえば、物質レベルで、PS や特異的プロテアーゼγに相当する発見、あるいは、transgenic/knockin mice (これは時間がかかり運もある)のモデル動物の作製などの hot topics に至っていない。 国内特許出願は2報で、その内1報をPCT出願する予定である。アルツハイマー病モデル動物は病態の phenotype が発現すれば有用なモデルとなる可能性がある。 |
コレステロールとアルツハイマー病の関連、血中Aβ 40および42の濃度、ApoE4の関与などに関して得られた知見は今後アルツハイマー病発症予防に生かされるだろう。本研究で作製した tau , PS, APP などの transgenic mice はアルツハイマー病の動物モデルとなる可能性がある。アミロイド蛋白をAβ 40とAβ 42に分けて高感度で定量することにより老人斑形成に先行する変化を解明したことは本研究の主要な成果である。しかしそのインパクトは原因遺伝子の発見とその機能の解析にくらべると地味である。
アルツハイマー病の APP → Aβ ・・→ tau → 神経細胞死の病理カスケードについて、Aβ の沈着、tau の沈着を中心に、重要な成果を国際誌に連続して出している。ただし、Aβ の蓄積に対する PS、γ−secretase、LDM domain の関与、PHF の形成に対する変異 tau の関与など多くの問題の解明が将来に残されている。 Aβ 沈着と脂質(LDM)との関連の知見は、スタチン投与によるアルツハイマー病予防の可能性も示唆している。脂質ごとにコレステロールとAβ の関係は ApoE と関連して最も注目されている領域であり、新しい分野である。各種 transgenic mice が長期飼育により病態を発症することが期待される。 |
ヒト剖検脳解析・分子生物学(井原グループ)Aβ と脂質の相互作用(柳澤グループ)、PS の機能解析(岩坪グループ)、transgenic/knockin mice 作製(上山グループ)等および brain bank(山口グループと安原グループ)の研究体制は、連携が極めて優れている。
初年度H8に設備費が大きいのは妥当である。H9〜H13に人件費が、その他(running cost)と平行して、多いのも研究の順調な進展を反映している。大学院生とポスドクを非常に有効に使って研究が進められている。 クレストの特色を発揮して、ベストのチームを組み、アルツハイマー病の分子病理に国際的に第一流の新知見を連続して出している。欲をいえば、運に左右されることであるが、インパクトの極めて大きい breakthrough が未だでていないが、5年間では短いかもしれない。ヒト脳剖検試料の精密な解析による信頼度の高い地道な研究である。 |