研究課題別事後評価結果

1.研究課題名
神経系構築におけるショウジョウバエ glial cells missing 遺伝子の機能
2.研究代表者名及び主たる研究参加者名(研究機関名・職名は研究参加期間終了時点)
研究代表者 堀田 凱樹 国立遺伝学研究所 所長・教授
主たる研究参加者 広海 健 国立遺伝学研究所 教授
池中 一裕 岡崎国立共同研究機構生理学研究所 教授(〜平成11年3月)
岩崎 靖乃 岡崎国立共同研究機構生理学研究所 助手(平成11年4月〜)
岡本 仁 理化学研究所脳科学総合研究センター チームリーダー(〜平成12年11月)
森川 耿右 (株)生物分子工学研究所 部長
阿形 清和 岡山大学理学部 教授
3.研究内容及び成果
 研究代表者らは、分子生物学技術と発生生物学技術を駆使できるショウジョウバエの脳神経系を用い、ニュ−ロンとグリアの分化機構及び神経回路形成の分子機構を明らかにする目的で、エンハンサートラップ法を用いて脳神経系に異常を起こす多数の突然変異を分離する研究を行ってきた。その過程で、共通の神経上皮母細胞からグリアとニュ−ロン(神経細胞)とが分化する際のスイッチ遺伝子gcm(glial cells missing)を発見した。この遺伝子を欠損する突然変異体では、中枢神経系及び末梢神経系のほとんどすべてのグリア細胞がニューロンとなって軸索を伸ばすようになる。また、GAL4-UAS遺伝子導入法によって、すべての神経幹細胞でこの遺伝子を発現させると、すべてのニューロンがグリア細胞型の遺伝子発現をするようになることを証明した。したがって、gcm遺伝子はニューロン・グリア間の分化運命を決定するbinary switch遺伝子であり、ニュ−ロンとグリアとが共通の母細胞に由来することをも確実に証明したといえる。単に細胞分化に必要な遺伝子というのではなく、このように細胞の運命決定を明確に決定するスイッチ遺伝子はまだほとんど知られておらず、本研究によってその分子機構の詳細を明らかにすることができたことは大きな成果であったと考えられる。しかも、このような際だった特徴をもつ遺伝子が、これまでに知られていない新規の転写調節因子をコードしていることを見いだした。さらに、gcmとほとんど同じDNA結合領域をもつ"gcmファミリー"遺伝子がヒト・マウス・ニワトリ・ゼブラフィッシュ・プラナリアなど生物界に広く存在すること、それらが神経系や血球産生系の細胞運命決定や細胞分化に重要な役割を担っていることも、本研究で明らかになった大きな成果である。
(1)堀田・広海 グループ
 gcm 遺伝子産物タンパク質(GCM)にはDNA認識結合部位(gcm-motif)が存在し、[5' (A/G)CCCGCAT 3'] の8塩基列を認識して結合することを明らかにした。さらに、この配列がgcmによって強く誘導される標的遺伝子repo遺伝子の上流に10個タンデムに並んで存在することを明らかにした。神経系以外でgcmを発現させた結果、gcm遺伝子は神経系以外でも強い細胞運命転換機能を持つことを明らかにした。また、gcmの時間的・空間的発現パターンとグリア・ニュ−ロン分化の関係を、個々の神経幹細胞の各細胞分裂を同定しながら解析し、ニュ−ロンとグリアとの運命が分岐する細胞分裂時に、グリア側の娘細胞でのみGCMが発現することを証明した。
 gcm遺伝子の発現調節機構に関しては、さまざまなneurogenic遺伝子突然変異体におけるgcm発現パターンを解析した結果、少なくとも一部の神経幹細胞由来のグリアでは、Notch及びProsの下流に位置していることを示す結果を得た。この解析には、細胞密度が高い中枢神経系よりも末梢神経系が適していることも判明した。
 gcm突然変異体の胚期神経系ではグリアが存在しない。この事実を利用して、神経回路形成におけるグリア細胞の役割について解析した。その結果、いわゆるpioneer neuronはグリアの存在しない環境でも正しく軸索路を発見できるが、それに続いて分化する一般のニューロンの軸索は多くの場合正しい路を発見できないことを証明した。また、この研究過程で軸索誘引物質とその受容体(Netrin と Frazzled)の分子作用機構が、教科書的に信じられているのとは異なることを証明した。
 ショウジョウバエゲノムの解析から、もう一つ類似遺伝子gcm2があることを発見し、クローニングした。gcm2は染色体上でgcmの近傍にあるが独立の制御を受けており、神経系ではgcm発現細胞の一部で発現する。また、頭部中胚葉血球産生系で発現していることを証明した。gcmが血球系の細胞運命決定にも関与していることは、マウスホモログが血球産生系でも働いているらしいという知見とも関係して、今後の重要な研究の焦点となっている。
(2)池中・岩崎グループ
 マウス gcm 遺伝子の発現パターンを神経系及び血球産生系において解析した。マウスにおいてはmGCMa及びmGCMbの2個の遺伝子があるが、それらの神経系での発現は必ずしも高くなく、胎盤・肝臓・腎臓・血球系など各所で発現が見られた。ショウジョウバエとは異なり、ニュ−ロンとグリアの分岐点でのスイッチであるという結論は得られなかったが、神経系細胞分化の細部で分化因子として働いている可能性が示された。研究期間終了間際にノックアウトマウスが得られたので、今後の初期発生における神経系及び血球産生系での役割の解析が待たれる。
(3)岡本グループ
 ゼブラフィッシュのgcmホモログをクローニングした結果、マウスやヒトとは異なり、良く保存されたgcmモチーフを持つ遺伝子は1個しかないことを示した。その発現パターンを調べた結果、初期胚の腹側に比較的広範囲の発現を証明した。
 また、遺伝子導入法により胚発生期に強制発現することによって、脳のいくつかの重要な遺伝子群の発現が消失すると共に、咽頭弓と鰓弓軟骨の発生異常をおこすことを見いだした。鰓弓軟骨の発生に重要なエンドセリンの発現を調べたところ、Endothelin-1の発現がgcmによって強く誘導されることを明らかにした。
 一方、神経系の遺伝子発現異常はgcmで誘導されるが、グリアとニュ−ロンとの分化に働いているという証拠は得られず、むしろ否定的な結論となった。これらの結果は、ゼブラフィッシュのgcm遺伝子は発生過程で細胞分化や細胞運命決定に重要な役割を果たしている可能性が示唆されるが、その機能はショウジョウバエで見られたような神経幹細胞の分化運命スイッチとは異なるものと結論された。
(4)阿形・梅園・百瀬グループ
 gcm遺伝子の進化的な意味をさぐる目的で、プラナリアのgcm遺伝子をクローニングしてその発現パターンを解析した。その結果、プラナリアのgcm相同遺伝子は神経系での発現はほとんどなく、むしろ間充織や再生組織で強い発現が見られた。間充織で広範な発現をする遺伝子機能の解析は困難なので、阿形グループは新たにニワトリ胚の研究に着手した。
 ニワトリgcm 遺伝子(cGCMa)をクローニングしてその発現パターンを調べたところ、後期胚の神経管での発現が観察されたが、ショウジョウバエにおけるグリア分化スイッチの様相とは一致しなかった。そこで、初期胚神経系でcGCMaを強制発現させたところ、特異的な脳胞の膨大がおき、cGCMaの発現によって細胞の運命決定が解除された可能性が示唆された。
(5)森川・清水グループ
 GCM-DNA複合体のX線結晶構造解析を目的として、DNA結合ドメインの大腸菌発現系を構築した。N末端コード領域を含む長さの異なった遺伝子を数種類作成し、これらをエンテロカイネース認識配列をリンカーとしてチオレドキシン遺伝子に接続した。GCMはシステインに富む蛋白質なので安定性に問題があるが、チオレドキシン融合遺伝子として低温培養大腸菌から安定に回収する方法を確立した。
 次に、DNA結合活性をゲルシフト法等で調べた結果、融合タンパク質はいずれも発現は良好で DNA 結合を示した。これらをエンテロカイネースで切断した際アミノ酸残基数 243、215などと長いものは非特異的な切断を生じたが、アミノ酸残基数 189 のものは特異的に切断され、安定なドメインとして得ることができた。またこのドメインは repo 遺伝子上流に特異的に結合した。この機能ドメインを用いて GCM-DNA複合体の結晶化条件の検討を行ったが、結晶化には至らなかった。
 一方ではNMR法による溶液条件での構造解析を行ない、蛋白質主鎖のシグナルの帰属を決定した。また、DNAとの相互作用領域の特定に成功した。さらに、亜鉛が結合していることを見いだし、その結合している4個のシステイン残基を同定できた。
4.事後評価結果
4−1.外部発表(論文、口頭発表等)、特許、研究を通じての新たな知見の取得等の研究成果の状況
 ショウジョウバエで新しい転写因子のglia cells missing遺伝子(gcm)を発見し、ニューロン・グリア間の分化運命を決定するスイッチ遺伝子であることを立証した。また、標的遺伝子repoの上流にあって、これを誘導することを見出した。マウス、ヒト、ゼブラフィッシュ、プラナリア、ニワトリのgcm遺伝子を分離し、gcm遺伝子は古くからゲノムに存在するが、進化の初期からグリア細胞の分岐に機能していたわけではなくて、幅広く細胞の運命分岐に機能していた可能性を発見した。gcm突然変異体、中枢神経の各ニューロンの軸索走行路の解析から、グリア細胞の軸索走行路の形成における新しい役割を発見した。さらにこの研究の過程で、リガンドの分布が受容体に変えられて、新たな位置情報となる新しい原理を発見した。
 しかし、gcm遺伝子がゼブラフィッシュとマウスでは別の働きをしていることがわかったので、ショウジョウバエとマウスやヒトのニューロン・グリアの分化機構を明らかにするまでには至らなかった。ショウジョウバエ神経系発生時での研究成果は見事だったが、その後の GCM 研究の展開は不運と言うべきであった。
 サブグループの寄与度については、研究代表者のショウジョウバエでのgcm遺伝子とGCMタンパク質の研究を支持して、各サブグループが異なる種におけるgcm遺伝子の機能の開明に大きく寄与した。gcmが生物界に広く存在することがわかって、それぞれの動物での働きが明らかになった。特に、ゼブラフィッシュに関する岡本グループの寄与度は大である。
 論文数は比較的少ない(英文56件、和文38件)が、Nature(軸索路の発見)やProc. Natl. Acad. Sci. USA(GCMの発見)に新しい原理・概念を提出した重要な論文を発表している。また、学会発表も国内学会71件、国際学会54件行われた。
 特許出願はGCMについての2件だが、将来GCMが疾病(特に癌)などに関与していることが証明されれば重要である。
4−2.得られた研究成果の科学技術への貢献
 本研究で、gcm遺伝子が分化スイッチとしてひろく様々な細胞分化系において働いている可能性が示された。gcm欠損マウスの研究から、グリア細胞が神経回路形成の「ガイドホスト」として働くことが明らかになったこと、gcmがマウスでは血球産生系の分化に重要な働きをしていることが示唆されるなど、予想外の研究の進展がインパクトを与えている。また、gcmはヒトの遺伝性の神経疾患や血液疾患などに関与する可能性が注目される。ただし、ショウジョウバエ神経系初期発生期の所見以外には特記すべき成果がない、という厳しい意見もあった。
 国内外の類似研究成果と比較して、GCMについてこれほど詳細な解析を行ったものは他にはなく、ショウジョウバエでのグリア・ニューロン分化に関しては世界をリードしている。ただし、はじめの滑り出しは良かったが、残念ながら其の後はネガティブの結果が多い。
 期待される成果としては、各種組織細胞分化の初期段階での転写調節因子としてのGCMファミリーの役割解明が期待される。gcmの機能をめぐって、ヒトgcm遺伝子の関連する遺伝性疾患が発見されることが期待できる。転写調節因子スイッチとしての機能以外の何か新しい仮説の提唱に発展することを期待する。

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