研究課題別事後評価結果

1.研究課題名
視覚認識の脳内過程
2.研究代表者名及び主たる研究参加者名(研究機関名・職名は研究参加期間終了時点)
研究代表者 藤田 一郎 大阪大学大学院基礎工学研究科 教授
主たる研究参加者 尾上 浩隆 (財)東京都神経科学総合研究所 主任研究員
3.研究内容及び成果
 霊長類大脳皮質における視覚情報処理のあり方、物体の知覚や認識にいたる脳内機構の理解を目指した。物体視知覚の後期過程に焦点を置き、側頭葉視覚経路の最終段である下側頭葉皮質(IT:後半部TEO野と前半部TE野)とその前段V4野の神経細胞の機能的性質と領野の機能解剖学的構築を解析した。また、行動実験によりサルの物体視知覚能力の検討を行った。
1)側頭葉経路(IT野及びV4野)における両眼視差選択性細胞の発見
 奥行き方向の位置手がかりである両眼視差は頭頂葉経路で処理されると考えられてきたが、研究代表者らは、IT・V4野の細胞の多くが両眼視差に感受性を持ち、一部の細胞は両眼視差と形の情報から算出した3次元面構造を伝えることを見出した。また、ヒトと同様、一般像抽出原則に基づき面構造を知覚することを行動学的に確認した。さらに、「細かい奥行き」を弁別する課題を遂行中のIT細胞の活動から、奥行き判断を80%以上の確率で予言できることを示し、これらの神経活動が奥行き判断に使われている可能性が高いことを示す証拠を得た。IT・V4野に似た両眼視差に反応する細胞が集まる機能的構造が存在すること、ITに両眼視差のみから定義された形に反応する細胞が存在することも見出した。これら一連の発見は、側頭葉経路で両眼視差に関する多様な情報処理がなされていることを示し、霊長類の大脳視覚システムの捉え方に変更を迫るとともに、両眼視差脳内処理の研究に新分野を拓いた。
2)TE野細胞の図形選択性と受容野形成におけるGABA抑制の機能的意義の同定
 TE野細胞の複雑な2次元図形特徴に対する選択的反応性及び受容野構造を形成する情報処理過程に、TE野内における伝達物質GABAを介する抑制性機構が関わっていることを見出した。抑制性TE野細胞が図形に対する反応選択性を有することも確認し、刺激選択的抑制がTE野細胞の性質の生成に重要な役割を果たすことを明らかにした。
3)TE野の水平軸索構造の特異性と発達過程の発見・記載
 TE野錘体細胞の水平軸索側枝の解剖学的構成がV1と大きく異なり、その特徴がTE野の機能的コラム構造の性質と一致することを発見した。この解剖学的構造は、胎児期にその基本が出来、出生後、ヘブ則に沿ったシナプスの増減により最終構築が完成する証拠を得た。0
4)霊長類大脳皮質におけるシナプス可塑性の多様性の実験的証拠
 水平軸索側枝に連発電気刺激を与えると、TE野ではシナプス長期増強が、一方V1ではシナプス長期抑圧が起こることを示し、皮質領野によりシナプスの可塑性が異なることを示した。
5)「全体の知覚」と「部分の知覚」におけるITの機能分化に関する仮説の提唱
 ヒトは物体を全体として知覚して後、その物体を構成する部分を知覚する。サルもヒトと同様、全体の知覚が部分の知覚に先立つことを確認した上で、陽電子断層(PET)法を適用した。全体の知覚ではTEO野が、部分の知覚においてはTE野が主に活動することを見出し、IT野がその前後軸方向で機能分化していることを提唱した。
4.事後評価結果
4−1.外部発表(論文、口頭発表等)、特許、研究を通じての新たな知見の取得等の研究成果の状況
 新しい視点での研究に果敢に取り組み、サルにおいて下側頭葉皮質に両眼視差選択性細胞が存在することを発見し、IT野に到る側頭葉系路が両眼視差情報処理に関与する、2次元図形に対応する機能コラム構造がIT野にも存在する、などの重要な成果を上げている。心理学・生理学・解剖学・分子生物学の手法による生理解剖グループと、心理学・陽電子断層法(PET)を主体とするPETグループとの共同による、「物体視知覚・視覚認識にいたる脳内過程の階層縦断的理解」の当初の研究目標に着実な成果をあげている。ただし、側頭葉経路における両眼視差選択性細胞を発見したことは高く評価できるが、一部の細胞が3次元面構造を伝えるという解釈には疑問が残る。また、IT野にランダムドットステレオグラムの中の図形に反応する細胞があるという結果もまだ予備的な段階である、という批判もあった。
 霊長類の連合野立体視メカニズムという課題について焦点を絞った研究を行い、TE野細胞の図形特徴選択性及び受容野形成にGABA抑制が深く関わっていることを見出した。ただし、研究構想に述べられた視覚認識=図形識別のメカニズムの解明から少しはずれた方向に研究が展開し、LTPやLTDの研究が尻つぼみになったのがおしまれる。両眼視差選択性細胞の機能的意義も、単なる奥行の判断だけでなく図と他の区別や遮蔽の効果などと関係づけることが望ましい、という意見もあった。
 難度の高い課題学習を必要とする研究の性質上、発表された論文数(英文13件、和文17件)は少なく、多くの重要な論文は投稿中であり、準備中の論文が10数編ある。論文数は少ないが、質は高く、Nature Neuroscience や Proc. Natl. Acad. Sci. USAに重要な成果を発表している。動物を用いる慢性実験という分野で論文の量産は困難と思われ、特許出願がないが、研究の性質上これも止むを得ないのではないかと思われる。学会発表は国内学会22件、国際学会31件行われた。
4−2.得られた研究成果の科学技術への貢献
 霊長類大脳皮質(特にTE野、IT野)における視覚情報処理について、価値のある貢献をした。非常に独創的な研究成果で科学的な価値が高い。行動中にPET法を適用する研究アプローチは、脳内過程の研究に重要な技術である。「両眼視差情報の腹側経路における情報処理」は今後の重要なテーマであろう。「ITにおける水平軸索構造の解剖学的知見と生理学的コラム構造との対応」に関する問題も今後の重要なテーマである。その先鞭をつけた貢献は大である。下側頭葉で両眼視差の情報が処理されている証拠を得たことは側頭葉損傷患者などの臨床面での応用につながる成果と期待する。
 IT野における視覚情報処理に世界の多くの研究室が取り組み始めている。本研究で、世界最高レベルの空間解像度をもつPETカメラ(浜松ホトニクス中央研究所)を用いて、人の1/10以下の大きさのマカカ属サルの脳を検査しているのは世界に先駆ける水準の高い研究である。サルでのLTP、LTDの研究に着手した点、行動中のPETの研究など、チャレンジを行った点が類似研究を超えており、今後の成果に期待したい。脳内情報処理過程の理解は、困難で時間がかかる「脳を知る」大きい研究課題と思う。
 視覚情報処理機構解明の重要な手掛かりを発見しているので、今後 PET、MRI などを有効に利用することによって、さらに理解が深められると思う。高次脳情報処理機構の研究は、非常に重要であるが、困難で時間がかかる研究であり、5年間の研究期間でも短いと思われる。しかし本研究は着実に進歩しており、ITにおいても似た2次元図形特徴に応答する細胞が集まる機能的コラム構造が視知覚において役割を果たしている発見の成果が、さらに発展することを期待する。両眼視差選択性の研究を三次元図形識別の問題と関連づければ新たな展開が期待できる。神経心理学者との共同研究を計画しているようなので、脳損傷患者での成果に期待したい。ニューロンレベルでの知見が裏打ちされることを望んでやまない。
4−3.その他の特記事項
 霊長類視覚連合野の機能区分と分子マーカーの研究は、分子細胞生物学の適当な研究室と共同すればより迅速に研究が進むように思われる。unit recordingのみならず、PET 法による研究さらにシナプスでのLTP、LTDなどの研究を行う研究体制にしたことは適切である。
 独創的な研究なので今後の発展が期待される。研究代表者は充分にその力量を備えている。高次脳機能の脳内過程の in vivo の研究は、実験動物の問題もあり、研究者の数も多くなく、時間と労力と装置を必要とする困難な研究である。今後、PETやfMRIの発達によって研究者も増加し、この分野も発展して行くことが期待される。そのような意味で本研究は貴重である。
 新知見を説明するワーキングハイポセシスまたは理論のようなものが提唱されていない点が惜しまれる。また、分子生物学的基盤に関する研究や神経心理学的研究を共同研究で遂行することが望まれる。
 「一般像抽出原則」のような特殊な仮説にこだわらず、もっと一般的に両眼視差情報と単眼性奥行手がかりの関係を調べて行けば、三次元図形認知のメカニズムという本来の目標に近づくはずである。

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