研究課題別事後評価結果

1.研究課題名
感覚から運動への情報変換の分散階層処理神経機構
2.研究代表者名及び主たる研究参加者名(研究機関名・職名は研究参加期間終了時点)
研究代表者 篠田 義一 東京医科歯科大学大学院医歯学総合研究科 教授
主たる研究参加者 福島 菊郎 北海道大学大学院医学研究科 教授
伊佐 正 岡崎国立共同研究機構生理学研究所 教授
彦坂興秀 順天堂大学医学部 教授
3.研究内容及び成果
 感覚・記憶から運動情報への変換は、脳における情報処理機構の基本である。研究代表者らは、その情報処理が脳の異なる領域で分散的に、しかし階層的な秩序を持って行われていると考えた。本研究ではこの仮説を検証し、その処理様式を明らかにすることを目指した。
 そのために、高等動物の眼・頸運動系を対象とし、視線制御における入力網膜座標系から出力の運動実行に必要な身体座標系への座標変換の問題が、いかなる情報処理過程により脳内で解かれているか、また随意運動の発現と抑制がどのような脳内機構で実行されているのかを、前頭眼野、上丘、脳幹、基底核、小脳の各段階で、入出力を電気生理学的または細胞内染色等の解剖学的方法、あるいは電気泳動による薬物の局所投与による薬理学的方法等を用いて同定し、情報変換の動的神経回路網と随意眼球運動の発現と抑制の神経機構の解明を目指した。さらに、注意や動機付け等の心理的プロセスが、隨意的眼球運動の発現と調節に関わる時、大脳や基底核がどのように選択的に活動するかについても検討した。
 随意的眼球運動(サッケード)は、外的刺激によって誘発されるstimulus-triggered saccadeと、内的刺激によって誘発されるinternally-initiated saccadeがある。篠田グループは、前者として視覚刺激によるvisually-triggered saccadeを、後者としてmemory-guided saccadeをモデルとして、その発現・抑制の神経機構の解明を行った。サッケードの発現とは、今興味ある対象から次に現われた対象に興味を移す、注意の移動のメカニズムとも言える。興味ある対象を注視している時、それに注意が持続していると同時に、他の刺激が加わっても視線を移動しないように眼球運動を抑制している(選択的注意)。他の興味ある対象が視野に現われ、そこへ視線を移すためには、この抑制をまず解除することが必要である。そして、次に視線の移動が起こり、新しい興味ある対象に注視を行う。篠田グループは、この一連の過程にかかわる神経機構を、サルおよびネコを用いて前頭眼野−上丘−眼運動細胞系で解析した。すなわち、上丘は網膜上でとらえた物体位置の2次元空間情報(網膜座標系)を、サッケードの方向と振幅(水平・垂直眼運動細胞の発火頻度)(運動座標系)に変換する空間−時間変換を行っている。このメカニズムに関してはこれまで多くの研究が行われ、その実体がかなり明らかにされてきているが、依然としてその詳細については不明の点が多い。篠田グループでは、これに関わる上丘・前頭眼野を含む脳幹の出力系の神経回路を細胞内記録と経シナプス的染色、HRP細胞内染色法を用いて解析した。さらに固視中の眼球運動の抑制機構を前頭眼野で解析し、前頭眼野の一部にサッケードの発現を抑制する部位を発見した。この抑制はこれまで報告されている抑制とは異なる様々な性質を持っていた。また、このサッケードに関する脳幹の出力系に対する小脳の制御機構を理解するため、小脳入力の苔状線維系と登上線維系の単一細胞の軸索投射の全貌を再構築し、小脳皮質における機能単位の解析を行った。
 visually- triggered saccadeの潜時は200 msecであるのに対して、memory-guided saccadeの潜時は100 msecになる。この時には固視の抑制解除に要する時間が不要と考えられ、この短潜時のサッケードはregular saccadeに対しexpress saccadeと呼ばれる。伊佐グループは、このexpress saccadeのメカニズムの解析をAchニューロンを含む脚間核−上丘系で、神経回路と薬理学的研究をパッチクランプ法を用いてネズミの脳スライスで行い、視神経から上丘出力細胞に至る神経結合の存在を証明した。さらに、脚間核細胞のスパイク発火と行動との関係を訓練したサルで解析した。すなわち、regular saccadeとexpress saccadeを比較しながら解析することにより、express saccadeにおける固視の際の抑制とその解除のメカニズムを脚間核−上丘系で明らかにした。
 サッケードの発現は大脳基底核による選択的抑制メカニズムにより調節されていることが、彦坂らのこれまでの研究から知られていた。この抑制メカニズムは短期的な作業記憶や空間的注意によって駆動される。彦坂グループはmemory-guided saccade課題を用いて、随意運動としてのサッケード発現に「動機づけ」がどのように作用するかを、大脳基底核の尾状核−黒質−上丘系の細胞活動を記録して解析し、大脳基底核細胞の感覚運動性情報が報酬によって強い影響を受けることを明らかにし、行動決定における認知的情報の発現に感情的情報が重要であることを示した。
 動く興味ある対象物を網膜の中心で捕えるために滑動性眼球運動が起こるが、これは強い注意を必要とし、静止物体の固視のメカニズムとの関連がどうなっているかは重要な問題である。これまで滑動性眼球運動の研究は頭頂野MSTの系で進んできたが、福島グループは前頭眼野の一部で滑動性眼球運動に関連して発火する細胞を見いだし、その性質について解析を行った。その結果、前頭眼野が眼球運動だけでなく、視線(眼と頭の共同運動)制御に関係することを明らかにした。前述したように固視時はサッケードの抑制が起こるが、この抑制がサッケードだけでなく滑動性眼球運動に起こるか否か、起こるとした時その相互作用を解析することにより滑動性眼球運動系の神経機構の解明が進むと考えられるので、福島グループと篠田グループで同一訓練サルを用いて、行動学的研究と解剖学的・生理学的研究を共同で行った。
 もう一つの重要な眼球運動として、近づいたり遠ざかったりする物体を正確に注視する機構である輻輳性眼球運動がある。この運動はさらに強い注意を必要とする運動で、固視との関連が強いと考えられる。この研究はほとんど手が付けられていない領域であるが、最近、固視の際発火する細胞が、上丘頭側部、続いて前頭眼野に見い出されている。福島グループは、前頭眼野の一部に、これまで知られていない輻輳に関連して発火する細胞を見出し、その詳しい性質について解析した。また篠田グループは、全く別のアプローチから輻輳に関連すると考えられるpremotor neuronを中脳に見いだし、それをもとに輻輳の上位中枢を明らかにするため、前頭眼野、上丘頭側部と固視のメカニズムとを関連させながら、その神経回路の同定を行った。
 これらの実験と共に、従来の実験では困難であった多点の神経活動の同時記録を脳の深部で行うことのできる、3〜5点の記録部を持つ直径 400〜500 mmの多チャンネル同時記録用微小針電極の将来の開発を目指して試作品を作り、様々な技術上、経済上の問題点を検討した。
4.事後評価結果
4−1.外部発表(論文、口頭発表等)、特許、研究を通じての新たな知見の取得等の研究成果の状況
 眼球運動を中心に、感覚から運動への情報変換のプロセスを研究し、大脳皮質(前頭眼野)から上丘、脳幹、大脳基底核、小脳まで含むシステム全体を系統的に解析する研究を行い、その間多くの新しい知見を得た。前頭眼野に滑動性眼球運動と輻輳運動に関係するニューロンがあり前庭入力を受けていること、前頭眼野にサッケード抑制野があること、上丘からの眼球運動制御経路と頚筋支配経路を同定し、express saccadeの系統(脚橋被蓋核)を発見した。眼球運動制御の機構を生理学的手法と形態学的手法を併用して単一細胞レベルで調べるアプローチと、システム生理学的に調べるアプローチを組み合わせて成果を上げている。精密な回路解析が行われているが、分子マーカーによる物質情報が欲しかった。
 実験動物に複雑な課題を学習させるために多くの時間と熟練を要するので、必ずしも当初の研究目標を達成していない点が多く見られるが、達成への確実な手掛かりを得ている点を評価する。神経科学に必須の電気生理を中心とする分野であるが、労多くして功が時間がかかるために、若手研究者が育ち難い。その点で、本研究構想は満足できると思う。各サブグループの研究成果を全体として研究代表者がまとめて、明確な全体像が得られた。4つのレベルの高い研究グループが CREST を契機に協力し、成果を挙げた。
 学会発表は国内学会65件、国際学会102件と多く、外国での招待講演が多いことは国際的な評価の高さを示している。論文が出しにくい分野で、またNatureやScienceのような一般誌に出しにくい分野と思うが、当分野における一流国際誌を含め多数(英文論文85件、和文論文28件)論文発表している。知的所有権については、研究テーマの性質上、特許にあたるような研究がないのはやむをえないと考えられる。
4−2.得られた研究成果の科学技術への貢献
 眼球運動制御についてはトップレベルの研究者達の研究成果であり、これらは量的には少ないが質的には極めて高い。whole cell記録による電気生理学的解析と単一細胞RT-PCRを用いた分子生物学的解析によるニューロンの同定、及びマウスの上丘の電気刺激によってより高等な哺乳類のサッケードと同等な運動が誘発されることを発見し、サッケードを制御する神経回路の分子機構を解析するミュータントマウスの利用の可能性が出てきた。マニュアルに基づく人海戦術的な研究が主流を占める中では、ユニークな研究の方向である。
 各グループとも研究目標が明確で、各グループの研究成果は国際的スタンダードに照らしても一級品である。中脳ドパミン細胞において、アセチルコリンのニコチン受容体を介して流入するカルシウムが2次的にカチオンチャンネルを活性化することを発見した。画像データをもとに、240 Hzという世界最速の時間、解像度でマウスの急速眼球運動を解析するシステムを完成した。訓練したサルの大脳基底核の尾状核−黒質−上丘系の細胞活動の記録から、感覚運動性の活動(情報)が報酬系(感情的情報)によって変化することを立証した。
 分子神経生物学で発見した遺伝子やタンパク質の機能も、神経回路網の構成因子として、System Neurophysiologyによって脳内情報処理過程において解明される必要がある。その点で重要度は高い。大脳基底核が運動制御だけでなく、認知機能の制御にも関与するという現在での認識を、眼球運動を用いて「感覚運動制御と動機づけ」の相互関係をニューロンレベルで研究する方向を打ち出した意義は大きい。
 多くの研究が未だ途上にあるが、新しい展開への糸口が示されているので、優れた資質を持つ研究者達による今後の展開が期待できる。彦坂グループの研究は、大脳基底核の研究にとどまらず、行動決定と動機づけなどにおける大脳連合野の研究へもつながる研究成果であり、今後の成果が期待される。
4−3.その他の特記事項
 眼球運動制御機構の解明と言う共通のテーマに向けて、異なったアプローチを持つ専門の研究者間での研究交流のメリットが生かされた。若い研究者が多数育ち、霊長類における脳研究の基盤整備に CREST は大きな貢献をした。
 はじめに提案されていた多チャンネル同時記録用微小電極の開発が進まなかったのは、残念である。別のプロジェクトとして再挑戦してほしい。

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