研究課題別事後評価結果

1.研究課題名
ヒト脳の単一神経細胞の発現遺伝子
2.研究代表者名及び主たる研究参加者名(研究機関名・職名は研究参加期間終了時点)
研究代表者 金澤 一郎 東京大学大学院医学系研究科 教授
主たる研究参加者 土屋 広司 浜松ホトニクス中央研究所 主任研究員(平成8年7月〜平成12年3月)
3.研究内容及び成果
 ヒト脳の単一神経細胞で発現している遺伝子は、細胞ごとに異なっていると考えられる。そこで、脳機能と直接結びついているイオンチャンネルの遺伝子を系統的・網羅的に調べてカタログを作成した上で、単一神経細胞レベルでこれを調べることを一つの目的とした。すなわち神経細胞の「個性」の解明である。さらに、神経細胞の病態を明らかにするために、CAGリピート病(TBP病)あるいはパーキンソン病を対象として、単一神経細胞レベルでの病態を明らかにすることを第二の目的とした。すなわち神経細胞の「運命」の解明である。
 本研究で目指した具体的目標は、@単一神経細胞のレーザーによるダイセクション法の開発、A微量のサンプルによる超微量RT-PCR法の開発、B共通塩基配列あるいはExpressed Sequence Tag(EST)を利用した新しいNa+、K+、Ca++、Cl- の各イオンチャンネルの発見、Cこれらイオンチャンネルのヒト脳におけるカタログの作成及び発現量の定量、Dこれらイオンチャンネルの単一神経細胞での発現パターンの検討、ECAGリピート病について、ハンチントン病や歯状核赤核淡蒼球ルイ体萎縮症(DRPLA)を対象として単一神経細胞レベルでの異常遺伝子の発現及び細胞脱落の選択性のメカニズムの検討、F核内封入体の病態への関与についての検討。
 これらの目標に対し、以下の成果を挙げた。
(1)技術的開発研究
1) 単一神経細胞を切り出すためのレーザーダイセクターを開発した。
2) 単一神経細胞から採取した微量のサンプルに含まれるmRNAを増幅する超微量RT- PCR法を開発した。
(2)イオンチャンネルに関する研究
1) ヒト脳から新規のナトリウムイオンチャンネルαサブユニット(SCN12A)を発見した。この遺伝子はテトロドトキシン非感受性αサブユニットであった。
2) ヒト脳に発現するナトリウムイオンチャンネルαサブユニットのカタログを作成し定量したところ、部位によって発現している主たるαサブユニットの種類が異なっていた。特に大脳皮質ではSCN1A〜SCN3Aが、小脳皮質ではSCN2Aが主たるαサブユニットであった。
3) ヒト脳の単一神経細胞でのナトリウムイオンチャンネルαサブユニットの発現を調べたところ、小脳プルキンエ細胞は4種類、黒質細胞は7種類、脊髄神経節細胞の内の小細胞は3種類など、細胞ごとに個性があることが世界で初めて明らかになった。
4) カルシウムイオンチャンネルαサブユニットは、筋肉だけでなく大脳皮質や大脳基底核にも少量ながら発現していることを発見した。
(3)CAGリピート病に関する研究
1) CAGリピート病の一つであるDRPLA脳に著しい体細胞モザイクを発見した。
2) DRPLA小脳で単一神経細胞レベルのCAGリピート数を調べたところ、同じ神経細胞でありながら小脳プルキンエ細胞と小脳顆粒細胞とで体細胞モザイクの程度が著しく異なることを発見した。
3) CAGリピート病であるハンチントン病で、最も脱落の激しい線条体小細胞と、ほとんど脱落がない小脳プルキンエ細胞とで、正常リピートアレルと異常伸長アレルをそれぞれ単一神経細胞レベルで発現量を比較したところ、線条体小細胞では異常伸長アレルの発現量がプルキンエ細胞の場合よりもわずかながら多く、細胞変性の選択性を説明できる結果であった。
4) ハンチントン病の異常遺伝子の一部を発現させた培養細胞では、細胞質内に形成される封入体は数分で形成され始め、数十分で完成することを見た。
5) ハンチントン病の異常遺伝子の一部を発現させた培養細胞では、核内の封入体を形成する主たる蛋白はハンチンチン、ヒストン、スプライソソームなどであり、ハンチンチンの凝集体に機能分子が巻き込まれて細胞に機能障害をもたらすであろうと考えられた。
6) 新規の優性遺伝性CAGリピート病を発見した。これはTATA結合蛋白(TBP)遺伝子中のCAGリピートの異常伸長によるものであった。
(4)その他の神経変性疾患における残存単一神経細胞の発現遺伝子に関する研究
 パーキンソン病黒質で残存するメラニン含有神経細胞の単一神経細胞レベルでのドパミン合成酵素群などの遺伝子発現を調べたところ、予想に反してチロシン水酸化酵素だけが特異的に著減した細胞はなく、むしろドパ脱炭酸酵素が著減している細胞が少なくなかった。
4.事後評価結果
4−1.外部発表(論文、口頭発表等)、特許、研究を通じての新たな知見の取得等の研究成果の状況
 単一神経細胞を切り出し、発現遺伝子を解析する手技を開発し、神経細胞に発現する新しい ナトリウムイオンチャンネルの発見と、その機能解析に成功した。また、ヒト脳病理標本に応用し、優性遺伝性CAGリピート病の発見など重要な成果を上げた。すなわち、1)単一神経細胞のレーザーダイセクション法と微量サンプルによる遺伝子発現解析の超微量RT-PCR法を完成した。2)ヒト脳から新しいナトリウムイオンチャンネルサブユニットSCN12Aを発見し、ヒトイオンチャンネルのカタログを作製した。3)ヒト脳の単一神経細胞での各種ナトリウムイオンチャンネルサブユニットの発現は細胞ごとに個性があることを発見した。4)CAGリピート病で著しい体細胞モザイクの存在することを発見した。5)優性遺伝するTBP遺伝子のCAGリピート病SCA17Aを発見した。6)ハンチントン舞踏病で異常ハンチンチン蛋白と核内封入体を発見した。
 個々の神経細胞の運命に関わる遺伝子の発見はできなかったと言われるが、提案された研究構想を達成し、単一神経細胞の遺伝子発現解析法の確立に成功し、超微量RT-PCR法の開発を進め、予期以上の成果が得られている。新しいイオンチャンネル、新しい異常蛋白、新しい遺伝病の発見など多くの成果が得られた。
 質の高い論文発表及び口頭発表が多数行われている。英文論文は71件で、 Nature、J. Cell Biol.、Proc. Natl. Acad. Sci. USAを含む他に、Hum. Mol. Genet.、Ann. Neurol.、J. Biol. Chem.など国際一流誌に発表している。学会発表も国内学会31件、国際学会20件行われた。国内外に多数の特許出願(国内7件、国外2件)がなされている。
4−2.得られた研究成果の科学技術への貢献
 単一神経細胞の遺伝子解析の手法を開発し、神経病理学の分野(特にヒト脳病理学)に新しいブレークスルーを創った。単一神経細胞のレーザーダイセクション法と超微量 RT-PCR 法の組合せは広い応用が可能であり、単一神経細胞における遺伝子発現の解析を始めて可能とした。優性遺伝するTBP CAGリピート病の発見は世界ではじめてである。
 分子生物学、遺伝子工学の常套的な応用でなく、脳病理学の明確な目標に向けて、独自な解析手法によって達成された研究成果であり、群を抜いている。独創的な技術の開発と応用に成功しており、国内外に類似の研究は少ない。
 脳の生理機能解明、病因解明に関わる重要な発見がなされている。単一神経細胞の個性の研究に道を開いた。イオンチャンネルに関する研究、CAGリピート病に関する研究は治療に結びつく話である。
 パーキンソン病の黒質ドパミン神経細胞で、単一神経細胞でしらべると、従来仮定されていたチロシン水酸化酵素の減少よりも先にドパ脱炭酸酵素のみが欠如する細胞が存在するという結果は、全く予想外であった。今後、本研究で開発された方法によって新しい成果が出ることが期待できる。また、本研究で得られた結果に基づいてCAGリピート病の治療に道が開かれることを期待する。さらに、この研究グループの研究が継承・継続されて大きな展開が遂げられることを強く希望する。
4−3.その他の特記事項
 当初の構想に従い、役割分担を明確にして集中的に研究を進め、成果を上げている。光学的研究を除くほとんどの研究をほぼ単独のグループで行った。当初の研究計画はほぼ完全に達成され、思いがけない発見もあった。科学的な目的意識の明確さと集中力に敬意を表します。
 上記の研究成果に基づき、「遺伝子発現の特異的抑制による神経難病の新しい治療法の開発」として、基礎的研究発展推進事業の平成12年度研究課題に採択された。

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