研究課題別事後評価結果

1.研究課題名
遺伝子変換マウスによる脳研究
2.研究代表者名及び主たる研究参加者名(研究機関名・職名は研究参加期間終了時点)
研究代表者 勝木 元也 東京大学医科学研究所 教授
主たる研究参加者 中村 祐輔 東京大学医科学研究所 教授(〜平成12年3月)
伊藤 啓 岡崎共同研究機構基礎生物学研究所 助手(平成10年6月〜)
3.研究内容及び成果
 脳機能の最も魅力的な研究対象はヒトである。しかし、分子レベルの実験的解析を、ヒトを対象に行うことは不可能である。そこで研究代表者らは、ヒトの脳機能に関与することが既に知られているグルタミン酸受容体を始め、ドパミンやセロトニンの受容体遺伝子を破壊またはヒト型に変換したマウスを作り、これらのマウスの解析を通して、ヒトに外挿出来る脳機能モデルの創造を目的に研究を行った。
 まず、グルタミン酸受容体のうち、NMDA受容体NR1、NR2A、NR2B及びmGluR1の遺伝子を破壊した遺伝子欠損マウスを作製した。
 また、細胞の増殖と分化に重要な役割があるとされている癌遺伝子H-rasが、脳の神経細胞で最もよく発現していることを見出したことから、その遺伝子欠損マウスを作製し、H-ras遺伝子の脳での役割を解析した。その結果、H-ras遺伝子欠損マウスでは海馬での長期増強(LTP)が亢進しており、NR2A及びNR2Bのチロシンリン酸化が有意に上昇していることを見出した。さらに行動解析から、特定の学習に於いては、正常マウスより良い成績であることが認められた。これは、癌遺伝子として知られているH-rasが、海馬におけるシナプス可塑性に関与していることを明らかにしたもので、NMDA受容体のチロシンリン酸化がRasを介したシグナル伝達経路によって制御されていることを示した最初の知見である。
 さらに、5種類のドパミン受容体すべて(DR1〜DR5)について遺伝子欠損マウスを作製した。それぞれのマウス及び2重3重の遺伝子欠損マウスは、それぞれに特有の表現型を示したが、とくにDR1とDR2の2重欠損マウスは、ドパミン神経の働きを知る上で興味深い表現型を示した。すなわち、生後授乳期の8日目頃までは、正常と同じように生育する。ところが、徐々に授乳量が低下し、動きも不活発になり、体温も上昇せず、やがて18日から21日目頃までに餓死してしまう。DR1欠損マウスもDR2欠損マウスも、摂食量は正常に比べて低いが、食欲は正常マウスと同様であり、2重欠損マウスの食欲の消失はDR1とDR2の双方がなくなって初めて認められる現象である。このマウスで血中のレプチン量を測ると、絶食時と同様に低く、また2デオキシグルコースの取り込みは前脳できわめて低いことが認められた。以上のことを考え合わせると、ドパミン神経系は、授乳期には未発達で、離乳期にさしかかるにしたがい、他の神経系と共に食欲を正に調節しているものと考えられる。
 ドパミン受容体は、その種類の多彩さの他に、発現場所に違いがある。それぞれの受容体の働きは異なっているが、様々な薬物の効果を正常と遺伝子欠損マウスとで比較しながら分裂症との関係を調べるため、行動実験の装置を開発した。しかし、遺伝子欠損マウスにおいて、遺伝子の背景を同一にするための戻し交配に時間を費やされ、期間内には充分な実験を行うことができなかった。
 セロトニン受容体(5HTR)は大きなファミリーを作っており、働き方も様々である。そこで、ヒトとマウスとでセロトニンに対する反応は同一でありながら、アゴニストやアンタゴニストに対してまったく異なる反応を示す5HTR1Bについて、マウスの遺伝子をヒト型に変換する試みを行った。その結果、ヒト型遺伝子変換マウスは、アゴニスト及びアンタゴニストの投与に対してヒト型の行動の特徴を示し、ヒトに有効な薬物の開発に利用できることが示された。
 以上研究代表者のグループでは、神経伝達物質受容体の働きを遺伝子変換マウスの作製を通して解析し、それらが記憶と学習、食欲の調節、運動の調節の発達などに関与していることを示すことが出来た。何れの場合も、遺伝子変換マウスから得られたヒントを手懸かりに正常でのメカニズムを追求した。
 中村グループでは、ディファレンシャルディスプレイ法を用いて、脳に特異的に発現する遺伝子を探索した。そしてセロトニントランスポーターなど、5種類の遺伝子を見出した。ヒトで遺伝子多型の存在が知られているセロトニントランスポーターについて、マウスゲノム遺伝子を単離した。
 基礎生物学研究所グループでは、伊藤啓助手が中心になって、ショウジョウバエの中枢神経細胞の系譜を追跡し、すべての細胞のネットワークの解明を行なった。マウス以上に強力な遺伝学的手法が利用でき、脳構造も比較的単純なショウジョウバエは、脳のごく一部でなく全体の回路構造を解明して、情報処理メカニズムや神経回路網形成過程を体系的に解析することが原理的に可能である。脳全体の詳細な神経回路図を作成するため、4,000を超えるGAL4エンハンサートラップ系統をスクリーニングして、一部の神経細胞のみを特異的にラベルする系統を選び、細胞の同定作業に用いた。一次スクリーニングでは、固定・染色なしに細胞の形態を観察できるGFPの遺伝子をUASにつなげたレポーターを持つ系統を各GAL4系統と掛け合わせ、成虫の脳を解剖して取り出して観察した。高速共焦点顕微鏡とCCDカメラを用いて電子データとして直接画像の取得・保存を行なうことで、記録作業の大幅な効率化を図った結果、4,000系統・計11万枚の画像からなる大規模画像データベースを完成させることが出来た。
4.事後評価結果
4−1.外部発表(論文、口頭発表等)、特許、研究を通じての新たな知見の取得等の研究成果の状況
 次の3つの大きい困難なプロジェクトを確実に進めた;1)グルタミン酸受容体、ドパミン受容体、セロトニン受容体の遺伝子を破壊またはヒト型に変換したマウスの作製と、そのマウスの表現型の探索、2)脳特異的に発現する遺伝子の探索、3)ショウジョウバエの中枢神経系の系譜の作製。すなわち、ドパミン受容体のすべて(DR1〜DR5)について遺伝子欠損マウスを作製し、さらに2重及び3重の遺伝子欠損マウスを作った。このドパミン受容体の DR1、DR2 2重欠損マウスで劇的な症状が出現した。セロトニン受容体のヒト型遺伝子変換マウスの作製によって、セロトニン受容体のアゴニスト及びアンタゴニストに対する反応が正常マウスと大きく異なることが分かった。これらは高度の手技と時間を要する実験であり、その多くの作製、解析に成功し、又準備を終った状態まで来ていることを高く評価する。またその過程で、 H-Ras遺伝子欠損マウスでのLTPの増強効果が認められたことは予想外の結果で、NMDA受容体のチロシンリン酸化の経路へのRasの関与を明らかにした。
 ヒト型遺伝子変換マウスの作製など、マウス遺伝子工学の研究は非常に時間・労力・金のかかる大型の研究である。これだけ多数の遺伝子破壊またヒト型遺伝子変換マウスの作製に成功したマウス遺伝子工学の技術は、国際的に最先端である。H-Ras欠損マウスの解析から得られた、NMDA受容体のチロシンリン酸化によるチャネル活性の調節機構の発見は大きい。
 ドパミン受容体を導入したマウスでヒト型分裂症などとの関係を調べる行動実験の装置を開発し、興味ある所見が得られたが、期間内に研究が完結しなかった。しかしこれは遠大な計画なので今後の発展に期待したい。
 ほとんどの研究は研究代表者の研究室で行われている。中村グループとの脳特異的発現遺伝子の探索は新しい探索系として適切な共同研究である。他に神経疾患に関する臨床面での協力者が得られれば良かったと思う。
 ショウジョウバエ神経回路網解析の研究は極めて高く評価されるが、基礎生物学研究所グループの寄与に関して、医科学研究所グループのプロジェクトとの関連が必ずしも明確でなかった。
 マウス遺伝子工学は時間のかかる研究であるから論文(英文36件、和文8件)は出にくい。にも拘らず Nature Genetics、Science など大きい成果が出ている。また、学会発表も国内学会52件、国際学会11件行われた。特許出願は期間内にはなかったが、モデル動物については行動異常がわかれば特許出願ができると思われる。向精神薬のスクリーニングに使えるモデルマウスができれば素晴らしい。
4−2.得られた研究成果の科学技術への貢献
 マウス遺伝子工学の技術は国際的に最高のレベルにあり、技術的インパクトが大きい。遺伝子破壊またはヒト型遺伝子改変マウスは、行動実験の結果によって、世界で最初の精神疾患モデルマウスとなりうる可能性がある。マウスの行動解析に、記憶、情動などの異常の解析と共に、ウテナ式行動測定装置を導入して行動の協調性を測定しているのは、野心的な試みである。表現型の解析から大きい break-through があることを期待する。
 ドパミン受容体、セロトニン受容体の各サブユニット遺伝子欠損マウスを作製した学術的インパクトは高いが、作製した動物での行動異常の解析、脳における特定遺伝子の機能的役割の解析の仕方がややあらく、必ずしも一歩先を行っているとは言いがたい。他の受容体遺伝子の破壊の効果は、二重欠損の場合以外はそれほど目立たない。ヒト型遺伝子導入の効果も期待したほどではない。ガン遺伝子のシナプス可塑性に対する効果が発見されたことは意外な発見で、インパクトが大きい。
 ヒトの精神病治療薬開発のためのモデル動物作製の意義は大きい。ドパミン受容体やセロトニン受容体遺伝子は今後の研究の焦点になりそうである。目的として遺伝子変換マウスの作成が完了し、または準備が進んでいるので今後の実験展開が期待できる。行動実験の結果がまとまることを期待したい。
 脳特異的に発現する遺伝子のマイクロアレーによる探索では、脳特異的に発現する血管新生抑制因子を発見したが、さらに新しい遺伝子の発見が期待される。ドパミンやセロトニン受容体変異体を用いた研究が進展すれば、学術的な意義は大であり、薬物耐性や精神疾患治療薬開発への応用などが期待される。
4−3.その他の特記事項
 マウス遺伝子工学は、得られる成果は大きいが、作製までに時間と労力と資金がかかる困難な仕事である。5年間でよくこれだけ多くの遺伝子改変マウスができたと感銘する。グルタミン酸、セロトニン、ドパミンはヒトの精神疾患で最も注目されている神経伝達物質であり、分子精神医学のモデル動物の作製の視点から野心的な研究である。ただし、主要な目的(ヒト型受容体、分裂症など)の達成はぼやけた感じになった、という批判もあった。

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