研究課題別事後評価結果

1.研究課題名
脳神経系を構成する細胞の多様性の形成機構
2.研究代表者名及び主たる研究参加者名(研究機関名・職名は研究参加期間終了時点)
研究代表者 岡野 栄之 大阪大学大学院医学系研究科 教授
主たる研究参加者 松崎 文雄 東北大学加齢医学研究所 教授(〜平成9年10月)
中福 雅人 東京大学大学院医学系研究科 助教授
小川 正晴 理化学研究所脳科学総合研究センター チームリーダー
田村 隆明 千葉大学理学部 教授(〜平成9年10月)
有賀 純 理化学研究所ライフサイエンス筑波研究センター チームリーダー(〜平成11年3月)
日下部 守明 理化学研究所ライフサイエンス筑波研究センター チームリーダー(〜平成12年9月)
高野 利也 慶應義塾大学医学部 教授(平成10年4月〜平成12年3月)
3.研究内容及び成果
 本研究は、脳・神経系の高次機能の基盤となる細胞の多様性の形成機構を、既存の技術をさらに高度に統合した形で駆使し、また独創的、新規的な技術をも開発しつつ、戦略的に解明することを目的とした。神経発生の初期過程を制御する遺伝子産物が、無脊椎動物から脊椎動物まで広く保存されていることを利用し、ショウジョウバエの神経発生過程における細胞の運命決定を制御する遺伝子産物を同定・解析することをスタート・ポイントとして、ショウジョウバエで同定された遺伝子産物の哺乳類相同分子を単離し、その機能解析を行った。機能解析の手段としては、哺乳類胎児終脳から樹立した培養細胞株や初代培養系への遺伝子導入、発現調節のためのin vitroの系、トランスジェニックマウスやノックアウトマウス作成による個体レベルでの詳細な解析を行った。また、このような神経発生の研究から得られる基本的知見を、近い将来神経変性疾患の治療法開発へと応用する方向で研究を進めた。
 ショウジョウバエのトランスポゾンであるP因子のランダムな挿入変異法により、神経系の発生に異常を示す変異体のスクリーニングとその責任遺伝子を単離することで、新規の神経発生制御遺伝子の同定を行った。この結果、神経系に強く発現するRNA結合性蛋白質Musashi、グリア細胞特異的ホメオドメイン型転写因子Repo、分泌型神経分化抑制因子Argosなどを同定した。
 これらの新規ショウジョウバエ遺伝子産物に加え、細胞間相互作用を介して細胞分化制御を行っているNotchシグナルを中心に、ショウジョウバエの強力な遺伝学的研究手法を武器に、神経発生の制御機構の研究を行った。その結果、MusashiはRNA結合性蛋白質として、転写後での遺伝子発現調節を介して、神経前駆細胞の非対称性分裂に必須の役割を担っていることが明らかとなった。
 また、細胞の非対称性分裂と細胞系譜の制御機構をより詳細に検討することを目的に、線虫のT細胞の非対称性分裂におけるWnt/Frizzledシグナルの役割を検討するとともに、同細胞の非対称性分裂に異常を示す変異体のスクリーニングとその責任遺伝子のpositional cloningを進めた。
 これら無脊椎動物の研究を通じて得られた知見をもとに、哺乳類の神経発生制御機構の解析を試みた。MusashiとNotchシグナルのcomponentであるDeltexの哺乳類相同分子のクローニングを行い、これらの遺伝子産物と哺乳類 Notchシグナル関連分子の哺乳類神経発生過程における発現パターンやその役割の解析を行った。この結果、Notchシグナル及びMusashi1は、神経幹細胞を未分化状態に保つ機能を有することが示された。また、興味深いことに、Musashi1は哺乳類中枢神経系の神経幹細胞に強く発現しており、同細胞の優れたマーカー分子であることが明らかとなった。
 これを利用し、Musashi1の発現を手がかりに成人脳内に神経幹細胞が存在するかどうかの探索を行った結果、成人脳内においても脳室に面する上衣細胞層、脳室下帯という領域に神経幹細胞が存在することが明らかとなった。これらの事実は、神経発生の機構解明へ寄与すると同時に、神経幹細胞の中枢神経機能再生に向けての臨床応用が期待される。損傷した成体の哺乳類中枢神経系の機能修復を行うためには、神経幹細胞の自己複製と分化調節機構を解明するとともに、神経幹細胞の分離法を確立し、損傷部位へ導入することが重要であるものと考えられた。この前半の目的のため、Msi1及びNotchシグナルを中心に神経幹細胞の自己複製とfate determinationに関する解析を行った。また、後半の目的のため、GFPレポーターを用いた神経幹細胞の分離法を開発するとともに、神経疾患モデルへの移植を試みた。また、神経幹細胞あるいは神経前駆細胞から生まれてきた細胞が、最終的な位置までどのように移動するかについても解析を行った。
 上記の全体的な研究実施内容及び成果と共に、個々のprojectとして以下の成果が得られた。
(1)神経幹細胞project(岡野、松崎、中福、小川)
 nestin-EGFPレポーターを用いて、神経幹細胞を同定し分離する方法を確立することができた。また、神経幹細胞・神経前駆細胞を脊髄損傷ラットあるいはパーキンソン病モデルラットへと移植し、これら動物の行動異常を回復させることができた。
(2)Notch情報伝達系project(岡野、中福)
 Notch情報伝達系に関与すると考えられるショウジョウバエDeltexについて、その役割を詳細に検討した。また、同遺伝子の哺乳類相同分子のクローニングと機能解析を行った。さらに、哺乳類Notchシグナルの神経幹細胞の分化制御における役割を検討し、同シグナルが神経幹細胞の未分化状態の維持と自己複製能において重要な役割を果たしていることを示した。
(3)Argos情報伝達系project(岡野)
 EGF受容体シグナルを負に制御する分泌性蛋白質Argosの機能につき、生化学的さらに遺伝学的な解析を行った。生化学的解析により、ArgosがEGF受容体に直接結合して二量体形成を抑制することを明らかにした。遺伝学的には、Argosの過剰発現によって生じる表現型を変化させる変異体をスクリーニングし、複数の変異体を分離した。表現型の解析結果より、これらの系統の中には、Argosと共通のシグナル経路を介して、細胞死あるいは細胞分化の制御に関与する遺伝子の変異体が含まれていることを示した。
(4)線虫project(岡野)
 線虫の分子遺伝学的手法を駆使して、細胞の非対称性分裂の制御機構を解析した。非対称分裂の機構をさらに解明するため、T細胞という特定の細胞の非対称分裂が異常になる変異体のスクリーニングを行い、15種類の異なる新しい遺伝子の変異体を22種類同定した。このうちpsa-1〜psa-8と名付けた8種類の遺伝子の変異体では、T細胞の非対称分裂が異常になることを確認した。また、psa-1とpsa-4遺伝子のクローニングに成功し、それぞれ酵母のSWI3そしてSWI2のホモローグをコードしていることを明らかにした。
(5)プログラム細胞死project(岡野)
 プログラム細胞死の分子機構を解明するために、ショウジョウバエを用いて、Caspase活性化因子であるCed4相同分子と、Ced9/Bcl2ファミリーの機能解析を個体レベル・分子レベルで進めた。また、哺乳類中枢神経系にける脱髄性疾患におけるオリゴデンドロサイトの細胞の意義につき、Caspaseを中心に解析を行った。
(6)RNA結合蛋白質project(岡野、中福、日下部、小川、高野)
 RNAの輸送、スプライシング、翻訳、安定化、不安定化などの転写後レベルでの遺伝子発現調節は、神経系の発生過程あるいは成熟した神経系において重要な働きをしていることが予想されている。これらの制御機構を明らかにするために、Musashi1、Hu等のRNA結合蛋白質を中心に解析を行った。その結果、Musashi1は哺乳類中枢神経系の神経幹細胞に強く発現するRNA 結合性蛋白質であり、in vivoでm-Numb RNAに結合することで、その翻訳を抑制することを示した。さらに、このMusashi1によるm-Numbの翻訳抑制がNotchシグナルの活性化を引き起こすことを明らかにし、神経幹細胞の未分化状態を維持する機構である可能性を示した。
(7)神経回路網形成とglia細胞の機能解析project(岡野)
 植物レクチンWGAを用いたショウジョウバエ神経系におけるシナプス標的の可視化技術の開発、及びショウジョウバエグリア細胞特異的ホメオドメイン蛋白質REPOの機能解析を行った。
(8)大脳皮質、小脳皮質形成機構解析project(岡野、有賀、日下部、小川、田村)
 マウス胎生期終脳のニューロン産生時期においては、放射状グリア(radial glia)という細胞が神経幹細胞であることを明らかにした。また、radial gliaから産まれた新生ニューロンの興味深い挙動を、スライス培養系と追記型ビデオ撮影装置を用いた観察から明らかにした。この他にもReelin、Zicファミリーについても機能解析を行った。
4.事後評価結果
4−1.外部発表(論文、口頭発表等)、特許、研究を通じての新たな知見の取得等の研究成果の状況
 「脳神経系を構成する細胞の多様性の形成機構」の広範囲な研究分野で、ショウジョウバエ、線虫、マウス、ヒトについて、8項目の広範囲なプロジェクトを遂行し、多数の独創的業績を発表した。すなわち、ショウジョウバエで発見した RNA 結合タンパク(Musashi)等の哺乳類相同分子を発見し、それが神経幹細胞のマーカー分子であることがわかって、成人脳内に神経幹細胞があることを証明し、Musashi、Nestinなどのマーカーを利用して、これを大量に分離・調整する技術を開発した。さらに、神経幹細胞前駆細胞の移植による中枢神経機能再生の研究へと発展させ、実験的パーキンソン病、脊髄損傷モデルラットでの移植治療に成功した。脳の発生、分化、可塑性に関わる分子の総合的同定と機能解明と言う巨大なテーマを系統的に研究し、多くの新しい知見を得ている点を高く評価するが、個々の問題についての掘り下げは必ずしも充分でないという意見もあった。
 研究の過程で、神経幹細胞が研究の重点となり、神経幹細胞の同定、分離法の開発、神経疾患モデルにおける細胞移植と再生医療の基礎研究に進んでいる。細胞分化制御を行う Notch シグナルについても哺乳類相同分子を発見し、それが神経幹細胞を未分化状態に保ち自己複製をするために重要な役割をしていることを明らかにした。神経幹細胞関連の業績は立派であるが、そのあとの展開として、神経細胞分化の基本的仕組みの解明に集中して欲しかったという意見もあった。
 総合的な研究を進めるには、個々の分野ごとに、専門家集団から成るサブグループの寄与が必要であり、この研究企画のケースではそれが有効に機能している。とくに皮質形成に不可欠のReelinに関するプロジェクトを担当した小川グループの研究成果は高い。
 発表論文は質量ともにoutstandingである。論文は(英文154件、和文71件)Cell、Nature、Nature Medicine、Science、Immunity、Mol. Cell、Neuronなどのインパクトの高い国際誌に発表されている。学会発表も国内学会121件、国際学会43件と多い。特許出願は国内5件、海外2件(他にも出願済のものがあり)で、再生医療に密接に関係した特許であり、十分である。
4−2.得られた研究成果の科学技術への貢献
 神経損傷や神経変性疾患の再生医学の基礎的研究であり、将来の臨床応用に極めて重要である。研究成果が移植医学に応用されれば、科学的・技術的インパクトは大である。
 研究成果の水準が高いことは、インパクトの高い国際誌に多数の論文を発表していることから支持され、国際間の協力も含めて世界のトップレべルの研究水準にある。ただし、総合的に高い水準を示すが、個々の問題の追求には、もっと集中したアプローチ(アイデア的にも、技術的にも)が必要なのではないかという批判もあった。
 本研究の進展の過程で、「哺乳類神経幹細胞に関する基礎的研究及び脳再生・修復を目指した治療法の開発」へ研究を進めているが、国際的に非常に重要度の高いテーマと考える。成果の移植医学(脊髄損傷)への応用、脳の再生修復(パーキンソン病)への応用が可能になれば、学術的ならびに社会的インパクトも大である。これらの成果をもとにして、新しいブレークスルーを生み出す人がでてくる可能性が高い。
4−3.その他の特記事項
 日本の生命科学の分野でこれだけ大きく、アクティブな研究集団が形成されるようになったことは感慨深い。研究代表者のリーダーシップによって効率のよい研究を進めているので、高く評価したい。国内外の研究者との連携研究がうまく行っており、多数の若い研究者が活躍している。全期間を通じて、大きな研究集団の活性を高めるための研究費配分がバランス良く行われている。CRESTにふさわしい強力な研究チームを構築して研究を推進した。
 脊髄損傷モデルラットで神経幹細胞の移植による神経回復に成功し、パーキンソン病モデルラットで神経系前駆細胞の移植による機能回復に成功し、臨床応用への道を開いた。国際競争の中で、ヒトの治療で成果を挙げてほしい。
 なお 研究代表者は、研究領域「生物の発生・分化・再生」に「幹細胞システムに基づく中枢神経系の発生・再生研究」を提案し、平成12年度の研究代表者として採択された。

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