インタビュー『この人に聞く』

神経難病を治療する手段としてのiPS細胞(1)-全2回-

岡野 栄之 氏

慶應義塾大学医学部生理学教室教授の岡野栄之さんは、脊髄損傷をはじめとする中枢神経系の疾患や損傷の治療法開発をめざす。研究はいま、ヒトiPS細胞を用いて脊髄損傷の動物の機能回復を確かめる段階まで進んでいる。今後、臨床研究へ進むには、人に対して安全で有効なiPS細胞を用いることが必要となる。臨床応用へのフロントラインを進む岡野氏に、研究の経過、現状、課題を聞いた。

聞き手:
岡野先生は1990年代から、大人の脳組織に神経幹細胞が存在することを明らかにするなど、分子神経生物学の分野で成果をあげてこられました。一方、81年にマウスES細胞が、98年にヒトES細胞が、樹立されています。ES細胞に対する関心はどのようなものでしたか。

写真:岡野栄之氏

岡野 栄之 氏

岡野:
私が慶應大学を卒業したのは83年。当時から発生工学的な研究には興味をもっていました。外部から遺伝子を導入したトランスジェニックマウスや、異系統の胚を融合させたキメラマウスなどをつくり、遺伝子変異が細胞自律的か非自律的かを同定する研究が周囲で進行していました。ES細胞はキメラマウスをつくるのに有効な手段になっていきました。88年には、ユタ大学のマリオ・カペッキ教授がES細胞を使ってノックアウトマウスを開発し、80年代終わり頃からは、多くの研究者がin vitro(試験管内)における細胞分化の研究を始めていました。私も発生工学の研究手法として注目していました。

98年、ウィスコンシン大学のジェームズ・トムソン教授らがヒトES細胞樹立を発表したときは、再生医学に使える細胞として注目するようになりました。私は、当時所属していた大阪大学で、倫理委員会にヒトES細胞を使う研究の申請もしました。国の指針ができる前からヒトES細胞を使いたかったのですが、大学の倫理委員会に通るだけでは研究はできないと知り、残念な思いをしました。慶應大学に移籍してから、2002年にヒトES細胞を使った研究計画を大学に申請して承認され、その後、国にも承認されました。

ES細胞が発生のごく初期にできる細胞をつくる能力は、脳から取り出した幹細胞などよりも高いものがあります。

聞き手:
iPS細胞との出会いや関わり合いについてもお聞きします。
京都大学の山中伸弥教授がマウスiPS細胞の樹立を発表した06年8月以前から、後に「iPS細胞」と呼ばれるようになる細胞についての情報を得ていたと聞きます。

岡野:
山中先生の研究については、国内の研究発表会や学会などで聞いていました。iPS細胞樹立のための4因子(Oct3/4、Sox2、Klf4、c-Myc)の名前までは教えてもらいませんでしたが、たった4つの遺伝子を導入することでES細胞のような細胞をつくるという話はうかがっていました。

われわれの行おうとしていた再生医療では、ヒトES細胞を使うことに対して倫理的制約がありました。研究内容が国の「ヒトES細胞の樹立及び使用に関する指針」に適合せず、基礎研究や動物実験は進むものの、臨床研究が難しかったのです。iPS細胞なら倫理的な問題がクリアできそうでしたので、ぜひ、iPS細胞で研究したいと思いました。

聞き手:
神経疾患に対する医療技術を確立するという先生の研究目的に、iPS細胞は合致していたのですね。07年には、岡野先生はマウス由来のiPS細胞を神経細胞などに分化させて脊髄損傷モデルのマウスに注射し、神経細胞の再生や運動機能の回復に成功されています。

岡野:
関連の研究は、マウスiPS細胞が論文発表されていない06年前半から進めてきました。その後、脊髄損傷の治療に向けた応用研究を行うにあたって、山中先生にも協力していただきました。山中先生の研究室以外でiPS細胞を使ったのは、われわれが最も早かったのではないかと思います。

実際に第一世代のマウスiPS細胞(Fbx15-iPS細胞と言います)を使ってみると、がん化が著しく、「これは使えないかな」と思ったほどです。しかし、だんだんと研究が進化して、実験条件さえ揃えれば、iPS細胞を使えそうだということになってきたのです。

写真:岡野栄之氏

聞き手:
実験条件を揃えるというのは?

岡野:
ポイントは、どのような細胞からiPS細胞をつくるかです。がん化する細胞とがん化しない細胞は、遺伝子のリプログラミングの程度により分けることができました。たとえば、iPS細胞から神経系の細胞に分化誘導する際に、分化させてもiPS細胞のような性質をもつ分化抵抗性細胞が残存してしまうことがあります。そのようなiPS細胞は、"よいiPS細胞"とはいえません。もともとのiPS細胞が100%消えて、すべてが神経細胞になる。そのようなiPS細胞を使わなければ危険だということを知りました。

iPS細胞はどれも同じではなく、いかによいiPS細胞を見極めることが大切であるかということがわかったわけです。

聞き手:
その後も、岡野先生は、安全なiPS細胞を治療に使うための研究を進めてこられました。医療にiPS細胞を用いることへの安全性についての知見は、どのくらい得られているのですか。

岡野:
臨床的な研究が始まらないかぎり、iPS細胞を人に使って安全かどうか究極的なところはわかりません。いまは、疾患モデル動物実験の範囲で最善を尽くすしかありません。動物実験と、人にヒト細胞を入れる研究では、環境が違います。いまの動物実験では、想定できる範囲で最善を尽くして研究をしているわけです。だからといって、研究者が「動物に対して100%安全だったので人に対しても行ったら想定外のことが起きました」と言うのは無責任です。そのような場合にどう対処するかも考えておかなければなりません。

聞き手:
研究の段階ごとに、考えるべき安全性や危険性は異なるのですね。

岡野:
ええ。たとえば、試験管内で行う研究と、生体に移植して行う研究とは違います。試験管内では、異常な遺伝子が発現していないか、あるいはリプログラミングがうまく行われているかといったことをマウスを使って解析するようなことが研究の中心になります。そこで解析されたiPS細胞を移植して腫瘍をつくるかどうかは、ある程度は予測がつきます。しかし、やってみないとわからない部分はあるものです。そのため、免疫能力のない実験動物にiPS細胞を移植して、どうなるかといった研究を行うわけです。

がん化の他にも、iPS細胞を分化誘導してつくった神経系の細胞が疼痛を引き起こすといったことも、考えうる有害事象です。移植した神経系の細胞が痛みを感じる神経線維と連絡してしまうと、痛みを感じることになります。

聞き手:
実際に臨床的研究が行われるようになると、多くの市民がiPS細胞に対する安全性や危険性にあらためて関心をもつでしょう。iPS細胞を使った治療に対しては、どこまで安全性を求めればよいのでしょうか。

岡野:
まずは動物実験で、安全性の確保に向けて最善を尽くして取り組むべきです。それを前提にして、前に進むしかありません。前に進まないと、動物実験だけ進歩しているのに、その成果を人には還元できないことになってしまいます。万一、人を対象にした研究で有害事象が起きた場合、対処策をしっかりと決めておく必要があると思います。


インタビュアー:漆原 次郎
取材日:2012年2月3日

岡野 栄之(おかの ひでゆき)氏の略歴

慶應義塾大学医学部生理学教室教授、日本再生医療学会理事、日本神経化学会理事、日本炎症再生医学会出版担当理事、日本生理学会常任幹事、国際幹細胞学会(International Society of Stem Cell Research, ISSCR)理事

1983年 慶應義塾大学医学部卒業、慶應義塾大学医学部生理学教室助手、1885年 大阪大学蛋白質研究所助手、1989年 米国ジョンス・ホプキンス大学医学部生物化学教室留学、1991年 大阪大学蛋白質研究所助手、1992年 東京大学医科学研究所化学研究部助手、1994年 筑波大学基礎医学系分子神経生物学教授、1997年 大阪大学医学部神経機能解剖学研究部教授、2001年より現職。2007年、同大学院医学研究科委員長にも就任。
おもな研究領域は、分子神経生物学、発生生物学、再生医学。
21世紀型COEプログラム「幹細胞医学と免疫学の基礎-臨床一体型拠点」拠点リーダー、グローバルCOEプログラム「幹細胞医学のための教育研究拠点」拠点リーダー、内閣府・最先端研究開発支援プログラム(FIRSTプログラム)「心を生み出す神経基盤の遺伝学的解析の戦略的展開」中心研究者、再生医療の実現化プロジェクト「再生医療実現化を目指したヒトiPS細胞・ES細胞・体性幹細胞研究拠点」拠点長。

受賞等

1995年 加藤淑裕賞受賞
1998年 北里賞受賞(慶應義塾大学医学部)
2001年 塚原仲晃賞(ブレインサイエンス振興財団)
2004年 ゴールドメダル賞(東京テクノフォーラム21)
2004年 Distinguished Scientists Award(イタリアCatania大学)
2004年 日本医師会医学賞
2006年 文部科学大臣表彰・科学技術賞
2007年 Lead Reviewer Award(Stem Cells誌)
2008年 井上学術賞
2009年 紫綬褒章
2011年 Johnson & Johnson Innovation Award(日本再生医療学会)

関連動画

動画一覧を見る

ページトップに戻る

おすすめ動画

関連動画

  • 文部科学省
  • 科学技術振興機構
ページトップに戻る