69. ブラックボックス考

 日本の国際競争力を復活させ、さらに継続的に強化する上で、ブラックボックスや、暗黙知の重要性を強調する論調が良く目に付く。この話は、団塊の世代が定年を迎えることで、現場における技術の伝承に穴が開くとの危険信号の話と重なってくる。
ブラックボックスはナノテクノロジーの世界でもますます重要になっていくのは間違いない。しかし、ナノテクノロジーがこれまでのものづくりの世界と質的に変わりそうなのは、ナノテクノロジーは量子工学(としてきっちり体系化されているとはいえないが)を基板としているからで、製造現場にとっては、いささか厄介かもしれない。
量子力学は物理学というよりも数学に近いから、数学についていければ、目には見えなくても、イメージをわかせることができ、ある種の直感による理解に近い理解ができるようになると説明されると、そんな気もするが、五感を介して経験し、得てきた情報蓄積を基にして働く直感とはどうも同じには扱えそうに無く、一面心もとない気がしている。
なんといっても、量子力学の世界でもっとも特徴的な量子からみあいとか、状態の重ね合わせの原理は、期待されている、量子コンピューターや量子情報通信の理解に欠かせないが、シュレデインガーの猫のたとえ話【箱の中で猫は死んだ状態と生きている状態が重なっているが、箱を空けて観察した瞬間に生死が決まる】といった説明が、スーッと理解できる人は多くは無い?ただ、この猫のたとえ話に出てくるボックスはまさに新しい時代のブラックボックスになるのかもしれないという連想が浮かぶ。

たとえば、量子現象を骨格にしたデバイスを商品にしたときに、他社が模倣をしていることを観測によって証明できないことが起こり、特許に抵触している、いないはどんな議論になっていくのだろうか?企業の特許出願は訴訟になったときのことをも想定して明細書作製が成されている時代であるが、量子現象を生かすには、これまでとは違った考え方が必要になりそうである。
これまでのブラックボックスは、最先端の分析技術や解析技術を駆使してもどうやって製造しているかがはっきりしないような作り方のできる設備を用意し、その設備の運転条件を設定している世界である。こうするには、自らの力で秘密裏に設備を用意できないときは、骨格を専門メーカーに依頼して作ってもらったあとで、改造して壊れても自らでメンテナンスをして設備メーカーに修理を頼んだりしないというやり方が一般的である。

筆者は、蒸着磁気テープの製造においてこの考え方に結果的に沿ったやり方をしたが、最初から考えが整理できていたわけではない。ナノテクノロジーが生み出すブラックボックスは、従来のブラックボックスをクリアできてもその奥にさらに壁として競争優位を分けることになるに違いない。カンタム・ブラックボックスの時代はまさに一人勝ちの時代で、商品の供給能力が不足する場合は丸ごと技術供与でしか対応できないといった時代になるのかもしれない。

今、話題の人の一人、ソニーの新社長に内定した中鉢さんが磁気テープの責任者だった時代に、一度だけ会食してざっくばらんに話をしたことがある。その際に言われたことで印象に残ってる話のひとつが「篠原にいつまでもトップは走らせませんよ。アメリカに投資した複数の蒸着磁気テープの生産ラインが立ち上がれば、ソニーの天下になる。篠原が作ってるテープは確かにデッキ屋の評判はいいようであるが、博士が製造現場に張り付いてやっているものづくりは、ものづくりとはいえない。テープはマニュアルで作れるものだから、アメリカでどーっと生産するからね・・・」と、人懐っこい笑顔でいわれた話である。しかし意気込みどおりにことは運ばなかった。
それはそれとして筆者も、中鉢さんが新社長として、一日も早くソニーの商品がインパクトを取り戻せるように、技術陣の元気を高めて欲しいと願うものの一人である。中鉢さんが好む、好まないにかかわらず、製造現場に博士が張り付くものづくりの比率が高まっていく時代がやってきそうである。




                              篠原 紘一(2005.3.11)

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