63. 基礎研究と特許

 ナノテクノロジー開発、事業化の国際競争は過熱する一方である。
3年前に民間から基礎研究を支援する今の職場に変わった。耳にするキーワードが違っていて、民間会社の研究所に所属していたのであるが、基礎研究の世界はずいぶん違うものだと感じた。

民間にいたからということでもないだろうが、少なくとも筆者は、産官学連携、TLO(技術移転機関)、死の谷、ダーウインの海などのキーワードは日常的に耳にすることはまったくなかった。最近はMOT(技術経営)を含め、大学が独立法人化して、粗っぽく言えば、学長が社長の立場になった以降これらのキーワードを頻繁に耳にする。民間にいたときから耳にたこ状態だった「知的財産の重要性」くらいが今の職場でも共通しているといった状況なのである。

ただ最近気がついたことがある。基礎研究における特許の位置づけの議論は大切である。事業家や、起業家にとっての位置づけとまったく重なっているわけではないが、基礎研究にとっても特許は重要だという切り口に加えて極めて有用なのではないかという認識を持つようになったことである。

今の職場に変わって、税金で基礎的な研究をする制度やその運用、価値観に戸惑いながらやってきた過程でいくつか遭遇した課題がある。
最初は研究課題の採択で遭遇した、評価の公平性、透明性といった難題であった(評価が課題であることは、民間においても変わらない)。確かに優れた多くの提案から、限られた予算の制約の中で重点的に推進しようとする課題が複数の有識者の複眼的議論を経て大きな期待を込め決まる。
不公平に、密室でということはまったくないのだが、走ったり、跳んだりして決めるスポーツと違って、芸術点などで決まったりするフィギュアスケートの順位と類似して、選ばれなかった先生方には、そのように映る部分があるのは自然科学の対象と違って、人間社会で起きる現象がほとんど再現性のない複雑系といえるからなのかもしれない。

次に遭遇した課題は研究開発の推進に対するメリハリであった。民間会社で進める研究と税金で研究する基本的な違いは、民間は組織責任が明確であるが、税金で研究する場合は、民間のような完全な組織ではなくバーチャルな部分が含まれていることである。(民間で行う組織を超えたプロジェクト運営でも本籍と、プロジェクト籍の問題は今はない。あれば競争に勝てないからである)バーチャル部分を強みに換えていくことができない限り組織だった力に打ち勝つのは決して容易ではない。選ぶ側も、選ばれた側もインパクトのある成果を生み出し、その成果の社会還元に最大の努力をし、結果を残すしかない。

次の戸惑いは、研究に必要な機械装置や、分析機器,計測機器の購入の際の機種選択の基準が、民間と違っていたことであった。カタログに載っていて、標準的な備品で世界の先端をリードするのは容易ではない。基本的には研究者のスペシャルな仕様が挑戦的で(あるほどリスクもある)あるほど、研究の武器になるまで予想以上に時間がかかってしまうこともあるが、そういうことが起こりうるといった前提の契約ではなく、問題ごとの対処になっていることであった。
特に機械装置で一品の特殊仕様には、大企業が逃げ腰になって、規模の小さい会社が挑戦の限界を超えたような背伸びで応じてきたりすることが散見された。
研究者も不満はあってもそれ以外の選択肢はないのが実体のようである。装置開発が研究の決め手になるような課題の場合、完成までの時間が読めないリスクは大きい。標準コースからの逸脱が大きすぎて扱いあぐねているのが実状であろうが、制度上の工夫がいるように感じている。

次は「税金が役に立っているのかどうかが一般人に理解されていない。理系離れは少子化とともに、科学技術立国の将来に影を落とす。説明責任を果たせ」といった課題にも遭遇した。

量子もつれなどは数学で理解する以外にはないと専門家に言われると中途半端なたとえ話を模索するのがむなしくなる。説明責任はいろいろな局面で望まれているのは確かであろうが、国民が知りたいのは、基礎研究について言えば、その研究成果はブラックボックスのままでも良くて、研究成果がいずれそれぞれの人の生活をどのように変えるかなどだろうと思う。まず、何を説明することが求められているかは、履き違えないようにしたいものである。

特許の話に戻るが、大学の特許マインドは民間会社に比べられないレベルであったのは学会での評価はオリジナル論文であるからであろう。民間会社では技術者に対して3Pが重要であり、重要な順番はPRODUCT,PATENT,PAPER(最近はPATENT,とPRODUCTが場合によっては逆転するくらいである)の順であると教育されてきた。
大学や、国の研究機関では一部の研究者を除いてPAPERが突出した価値を持っている。研究成果が時に学会誌に載らないという扱いを受けたり、正しく理解されるまでに紆余曲折があったりする例もあるらしいが少数であろうし、学会誌に載れば、研究が評価されたとなるし、学会誌によって掲載論文の引用回数を指数化してインパクトを客観的な評価(?)に近づけようといったこともなされているから多くの研究者は自らの研究の評価の尺度のひとつとして重視している。
しかし、社会還元、説明責任、評価の客観性、透明性、公平性などにすべて応えられる制度がひとつ存在している。それは学術論文ではなくて特許なのではと最近考えているところである。

それは、論文は新規性を問うが、特許が成立する上での他の要件である進歩性や、産業上の利用性は問われていないからである。特許はそれらを問うし、審査官のみならず、公開情報に対してウオッチしているところから異議がかかることもあるし、外国に出願すれば、価値は国によって違うにしてもさらに評価の切り口は広がり、より国際的に、客観的、公平な評価へと接近していくのではなかろうか。

だとすると、特許を出して評価を受けるということは論文としての価値を包含したより社会還元度の高い、時代の要請にミートした評価になる有用性に注目すべきではなかろうか。
もちろん論文の審査と違って、専門的な最高レベルの評価は特許においてなされるものではないから、論文重視の軸は不動であるとして、それに加えて時代の要請にこたえていく研究者の社会還元マインドを磨く場として特許の審査の過程で行う、審査側とのコミュニケーションは有用であると最近強く思っている。


                              篠原 紘一(2004.11.26)

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