59. 庄内パーティー

1976年のゴールデンウイーク明けに、蒸着テープのプロジェクトは5人のプロジェクトメンバーでスタートした。究極の磁気テープといわれていたが、いつ必要とされるか、実用化できるものかも皆目見当がつかない船出であった。
ところが、ポリエステルフィルムに磁性体を蒸着して、カミソリで規定の幅に切り、録音できるテープは手にしていたといっても、素人が集まって、音が出る、絵が出ることに感動して夢中で実験していた時期でしかないその年の8月に、松下幸之助相談役(当時)が突然開発現場に立ち寄られた。その直後に、研究所長宛に来た手紙によって、このプロジェクトは別格のプロジェクトになってしまった。

組織にあっては、トップが強い感心と期待を示せば、「できないものもできる(結果的に、不可能と思われていたものが可能になることも起こるが)」となって、迷走するビッグプロジェクトも多くあったことが気にはなったが、上司達もはしゃいでいる割には5人のチームが7人に増えた程度で冷静な対応であった。むしろ、次々に開発現場をVIPが訪問、その際に気分を良くしてリップサービスする、所長、部長の一言、一言によってリスクのある開発目標がコミットメントになっていく過程など、これまで経験できなかった貴重な経験をしたことが、後々大型プロジェクトの推進に大変役に立った。


ともあれ、騒々しい開発になったが、実用化にいたる技術のブレークスルーの多くが少人数のプロジェクトチームで進めている間に達成された。開発に限らず、日常的に経験したり、実感することで多くの人が知っている「ビギナーズラック」「金持ちはますます金持ちになる」「機会は公平だとしても、結果は不公平になる」など、多くの事象で偏りが起こり、このことに法則性を見出したイギリス人のパレートによって名づけられた「80対20の法則」があるが、この開発においても重要なブレークスルーの80%が開発期間の初期の20%の時間内に達成されたといって間違いではない。
なぜこのような偏りが起こるのかは開発プロジェクトによって一様ではないが、筆者の事後評価では一番聞いた要素は素人の集まりであったが、祭り好き(初期も初期に幸之助事件に巻き込まれてもそれを楽しんだ)の個性豊かな5人のチーム構成が実にアクティブに絡み合ったこと、具体的には素人であることを十分自覚して、よく勉強したことと、よく議論し実験で確かめたことだと振り返っている。

蒸着テープを試作する機械は、フィルムを巻き取りながら金属を電子ビーム蒸着できる装置で、実験機としてはかなり高額ではあったが、そもそもの目的は誘電体であるフイルムの両面に金属の電極を蒸着したものを、くるくる巻いて容量素子(キャパシター)を試作する開発用であった。
プロジェクトチームは、その機械を転用し、日に日に、磁気テープの試作に適合する機械装置に変貌させていった。これは他社にない強力な武器であったが、逆に専門メーカーにあって、チームになかったのは磁気テープを開発する上で必要な測定器や解析装置で、しばらくは総合評価と評していたが、要するに磁気テープにして録音機に(しばらくしてからは大胆にもビデオテープレコーダーにもかけて、次の手を考えるやり方であった)直接かけてのいわゆる実機評価という方法しか手の出しようがないといった状況で、開発環境としては片肺であった。
測定項目がたとえば、実機での磁気ヘッドの出力だけであった時期は、一日で20種類ほどの異なる条件の磁気テープを試作して、測定を行うことで開発目標へ接近していくことが常態であった。このペースで行くとやることがすぐなくなるような気もしたが、次々とアイデアが出された。

私作る人、私測る人といった役割分担であったが、毎日夕方、翌日の実験計画を議論して決めた。週末の就業後の議論の場はアルコールを入れた議論になった。
研究所が、大阪の庄内の近くにあり、庄内には大阪で最も安いといわれている豊南市場があって、一人500円も出せば十分満足のいく懇親の場となった。

ここでは特性を飛躍させる跳んだ発想が出されることが多かった。ある時、サントリーレッドばかりではといった話になって、特性目標をクリアして所長から上等なウイスキー、ワインをせしめようという提案が出され、所長が受けたことから、称して「庄内パーティー」はますます盛り上がっていった。プロジェクトの進展によって、人事、経理、総務の女性社員をお誘いしての庄内パーティーは、今で言うところの説明責任を果たす訓練の場にもなって行った。

「こんなにお金を使って何が生まれるのか?」「夢みたいなことを言って本当にできるのか?」と、今でもドキッとするような質問が飛び交った。これも、後々のプロジェクト推進で役立った。

庄内パーティーで鋭い突っ込みをしてきた女性たちも、拡大するプロジェクトのいろんな場面でサポートに回ってくれ、大いに助けられもした。時には、その場で生まれたアイデアをすぐ確かめたくて真っ赤な顔をして実験もした。確かに危ないやり方だったかもしれないが、今は極端にここで紹介したようなやり方は影を潜めてしまっている。

発想の瞬間にアルコールがどう関与するかは脳生理学的にはっきりしてるわけではないかもしれないが、経験的には明らかにノンアルコールではもたらされない何かがもたらされたと思っている。

                            篠原 紘一(2004.9.27)

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