49. 春雑感

 4月1日、国立大学法人がスタートした。所用である大学を訪ねたが、見える部分の変化もわからないし(たいそうなことではないものの、看板も以前のままであった。このあたりも民間の感覚とはやはり違うといっていいのだろう)、直接的には見えにくい意識の変化が隅々までいきわたるにはどれほどの時間がかかるのであろうか。
競争原理が導入されたといっても、その渦を実感している部分はまだほんの一部で、それぞれの大学がどのようにして存在意義をより明確化していくのか、その努力の積み重ねでいずれは大きな変化につながっていくことを期待しつつ、マラソンで言えばスタートを切った団子状態を眺めて拍手を送っている状況なのだろう。とはいえ、関心を持って同窓会誌を読んではきたもののすっきりはしないし、大学が急に経営対象になって、先輩の知恵やノウハウをといって、JRの幹部を経営会議のメンバーになどの動きを見ても頼もしさを感じるというよりは、大学が研究はもとより、さまざまな方面でこれまでより質、量の両面でグローバルに通用し、活躍できる個性豊かな人材を輩出できる機関として成長していって欲しいといった思いを強めるだけである。
さらに言わせてもらえば、これまで以上にグローバルに開かれていくことで、多様な価値にきっちりとした物差しが当てられる人材が育つ場としても、本質をはずさない競争をお願いしたいものである

最近の日経新聞によると、アメリカ、ドイツ、イギリスといずれも大学は曲がり角に来ているとはいえ、経営で競うとなると、官の民営化の経験者を大学の協議会の役員に一人や二人入れたぐらいですむ話ではない。どのような経営であっても、短期、中期、長期の視点が必要であるし、そのバランスは大学の進むべき方向、ビジョンの描き方で変わるものであるし、ハンドリングを間違えやすいのが短期の視点ではなかろうかと心配になる。
なぜなら、この視点はこれまで大学にはなかったと思うからである。たしかに競争原理の導入はグローバルに見ても趨勢である。大学間の競争は、もちろん年度単位の経営数字の競争ではなくて、大学の存在意義そのものは輩出した多くの人たちがもたらす社会貢献などの総和が問われる競争であり、その意味で歴史の評価をうけるとの認識は独立法人化によって変わるものではないと思う。変わっていくのは共通の物差しによって、短期にではなく中期的なレンジで大学の活動成果がこれからは計られていくということが評価の中心になっていくと理解すべきであろう。追いつき追い越せの見本があった時代にできた社会の駆動勢力関係図とともにできてきたイメージから来る大学のブランド力は、いったんリセットされるとして望むべきであろう。グローバルに見渡しても手本らしきものがない時代に入っている。
だからこそ、国のグランドデザインの基礎になる海図を創り出せる大学が社会の尊敬を集められるようになればいいと強く思うこのごろである。

今年も、桜が咲き散っていった。桜前線が北上といった風情のある表現を数年繰り返し耳にしてきたのだが、その間景気は低迷し、日本型の雇用制度は崩れ、春先に日本人が抱く希望の総和はシュリンクを続けた。今年はデジタル家電が牽引する景気高揚に空回りでない期待感がただようようになったからか、天才ジョッキー武 豊が騎乗してもマイペースの“はるうらら”の連敗記録更新を本音では承知の上で、負ける馬券を買う余裕らしき行動が(合目的的発想からはまったく理解しがたいことであるが)、高知競馬場から東京の馬券売り場にまで広がってきている(これも、桜前線北上なのだろうか)。
話がそれたが、日本列島、桜の名所はいたるところにあって、それぞれ桜を愛で楽しめる場所には事欠かない。今年は茨城県の指定天然記念物である真鍋小学校(@土浦市)の桜を見に行った。ここの桜を見て感動する主要な条件は今回はほとんど満たされていないにもかかわらず出向いた。
校庭の真ん中に枝を広げたソメイヨシノの老木が支えられながらも華やかに春爛漫を演出するいつもと違って、今年は本校舎の改築でプレハブの校舎が建てられていて庭が狭められたり、工事現場としての立ち入り制限があったのに加えて(この桜は、どこから視界に入ってくるかが感動を支配するらしい)、雨天なのに見学に行ったということである。しかしそこで一つ気がついたことがある。
天然記念物が、この日はなんとなくこれまで抱いてきた桜のイメージと違って映ったのである。それは幹や枝が雨にぬれて黒ずんでいることからきているのではないかと感じた。よくよく考えてみると雨の日に桜をしみじみ眺めたことがなかったことから、大げさに言えば初めての気付き(発見)といえる。これまでも、桜の季節は花冷え、強風、冷たい雨など、決して自然は桜にやさしいわけではなかった。だから繰り返し、雨の日に桜を目にすることはあったはずであるが、視界に入ることと発見につながるような“見る”行為とは違っているのである。
好奇心や、興味がないと見ても見えないことが多いのである。誰にもあるこの研究能力を大事にしていきたいものである。


                                    篠原 紘一(2004.4.16)

                     HOME     2004年コラム一覧          <<<>>>