46. 選ばれた責任、選んだ責任

 平成元年、94歳の生涯を閉じた松下幸之助は、83歳のときに松下電器の社長に山下俊彦取締役を抜擢した。社員手帳の役員一覧表の下から2番目に位置していた名前を聞き驚いたうえに、印象的なこととして「大変重い責任を感じるが、選んだほうにも責任がある」との発言が新鮮であったことを今でも鮮明に思い出す。松下電器の改革に取り組み、「個人の目標と会社の目指す方向が一致していることが肝心である」との訴えは時代を先取りした考え方であった。

世の中には、多くの選んだ側と選ばれた側のペアが存在している。
個人対個人、個人対グループ、グループ対グループのペアがあるがいずれの組み合わせでも、責任の重さを均等に感じるかどうかは別にして、責任はいずれかに局在することはありえない。

今年は8月にアテネでオリンピックが開かれる。
常人にはまったく想像を超えるマラソンという過酷な競争に挑む有力女子選手のドキュメンタリーをテレビで観た。なぜ、苦しい練習をしてまでマラソンを走るか時々わからなくなるが、やはり帰着するのはオリンピックで走りたいということのようである。しかしオリンピックで走れるのは3人に限られている。3人を決める選考レースは4回あって、そのうち3回が終わっていて、3月の名古屋国際マラソンが終われば3人が決まる。

世界陸上の日本人トップでメダリストはオリンピック代表にそのレースの結果だけで決まることとなっていたから銀メダルの野口みずき選手が代表枠のひとつを獲得した。残る二人は名古屋の結果を踏まえて日本陸連が最終的に選ぶ。これまでも専門家の目で見ての納得性と、一時的に人数が膨大になる野次馬的な関心を寄せるにわかマラソン評論家(?)の納得性は必ずしも一致しないであろうから、しばらく大げさに言えば国民的議論が沸きあがりそうな今の状況である。

というのはなんといっても、シドニーオリンピックの金メダリスト高橋尚子選手が、絶好調を伝えられて望んだ東京国際マラソンで、30キロ過ぎに失速、平凡な記録(といっても非凡の中での平凡であるが)に終わったことにある。陸連が高橋尚子選手を選ぶとしたら、オリンピックでの女子マラソン初の連覇への期待が専門的に見て十分持てる、か少なくともメダルに絡める期待が高いことが今の力(過去の栄光でなくて)にたいしてきちっと見通せているとの確信がいるように思える。

専門家の経験や、哲学も尊重に値するといっても、スポーツ科学のメスを入れて科学的にも選ぶ基礎となるデータが示されてもいい時代になってきているのではないかといった気がする。もちろん実際のレースを予測するのは多くのリスクがある。しかし選ぶ側の責任は、結果にたいしてAさんより、Bさんを送り込んだほうがよかったといわれないだけの選考根拠を明確に示すことであり、結果にたいして総括しそれをいかして少しでも科学的、客観的に選考できるように積み重ねていくことにあるように思う。
選ばれた側の責任は国民のメダルへの期待の大きさを適度の緊張感に転換して、悔いを残さないマラソンであったと胸を張って言えるように最善の備えをし、マラソンゆかりの地アテネを走り抜けることであろう。

女子マラソンに比べて選考はすっきりしているが、ドラマティックでかつ熾烈なのは女子のレスリングである。世界チャンピオンの人数がオリンピック出場枠を上回っているのである。体重でクラスわけされているが、世界選手権のほうが刻み方が細かいからなのと、オリンピック委員会でまだそれほど重視されていないなどの要素が絡み、チャンピオン同士の対決が起きている。
選考は2回の大会でどちらも優勝すれば代表に決まり、優勝者が割れた場合はプレーオフで決着するということで、あいまいさが残るとすれば、判定になったときだけなのはまだ救われるだろう。女子レスリングは「蛙の子は蛙」の選手が活躍していたり、姉妹そろってチャンピオンなども話題を呼んでいる。なかでも、
二度の引退からアテネを目指したがかなわなかったママさん選手の戦いなどは感動もんである。

高い目標を持ってそれに挑む姿を見せることは、結果のいかんを問わず多くの人たちを励ますことにつながる。オリンピックはなぜ4年に一度になったのかは調べていないが、毎年では多すぎ、10年では間延びしすぎで、ピークを迎える年齢にたいするデバイドがおこるだろうし、4年に一回ダルことがオリンピックを格別のイベントにしているのであろう。それゆえに物語の広がりも大きくなっているのだと思う。


この領域事務所は、国のナノテクノロジーの強力な推進の一端にかかわり、11のプロジェクトのサポートに追われている。ここでも、選ばれた責任と選んだ責任について振り返させられることが時には起こる。そのときに立ち返る原点は国民の多くの期待がどこにあるかをできる限り冷静に、立場や、役割を超えて悩むことにおいているつもりではあるが、スポーツと違って、研究は戦う相手がわかっているようで案外見えないことがそうさせているのかもしれないが、なかなかすっきりいかない事のほうが多いのが実態である。


                                    篠原 紘一(2004.3.1)

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