27. 凡人の挑戦


30余年の会社生活は、技術開発に明け暮れ、その大半が大型プロジェクトであった。
大型のプロジェクトは資金面、人材面では恵まれるだけに、軸が振れない運営は必須である。
しかし軸の評価は大きくは競争相手と、世の中が決めるものではあるにも拘らず、大型プロジェクトは何らかの形で経営幹部が絡むことから引き際の美学は無いことが多い。

たとえ目標にした成果が出ても、ビジネスは動いているから、積極推進のフェーズから突然ブレーキが踏まれ、減速フェーズに入り資金は減り、やがて人員も減る。プロジェクトリーダーの口数も減り、士気は当然のごとく落ちていくが、“やめる”ことには少なくなっていく抵抗勢力を見ながら、時間をかけてといったプロジェクトが多くなりがちである。
はじめるときは勇ましくキックオフで気勢を上げるが、やめるときはお通夜をこえた寂しさが残るものである。


筆者はおよそ半分を実戦部隊として働き、残りはリーダー(と任命されていなくても実質的にその任にあるものと勝手に自覚して行動したのも含め)としての経験をつんだ。
最後の大きなプロジェクトは、ある意味で筆者の集大成のプロジェクトであったので、提案はチームリーダーの計画を軸に置き、目標の評価はビジネスの側面からの経営評価で行い、3年の時限とした。
3年後に目標比較のみならず、会社にとっても、業界にとっても存在価値の薄い仕事しか出来なかったら、あっさりやめることを、公にしてスタートした。

やめないですむようにしたいことから、異質のメンバーを集め、必要な資金は確保することを実践した。3年後に“ごめん”で終えないように、継続的なミッションをもてる集団にすることがリーダーとしての運営の責任と肝に銘じた。このプロジェクトは最初から事業のトップに、ビジネスと技術のあり方などのご指導が仰げたことが、筆者にとって大きな力になった。

幸いにして、3年の時限を待たずに、総括的に評価し、やめるテーマと、更に強化するテーマとに整理したうえで、明確なミッションをもった組織運営体への移行を果たせた。

チームの挙げた成果は、非凡なレベルと業界の先輩たちにも認めていただいたが、プロジェクトリーダーの筆者にとってはまさに凡人の挑戦であった。
大型プロジェクトの浮き沈みを経験しながら、競争相手のどこよりも早く発想し、どこよりも早く具体化するには、自分にあったなにかやり方があるのではとの試行錯誤の末にたどり着いたのが、ノートと日記のしつこいまでの活用であった。


ノートはB5版の100枚のものを愛用した。そこに、計画、データ、会議議事録、業界情報などをスペースを開けて貼り、日記は主として運営に関するメモを残したものである。
神戸で震災にあったとき以外は、自分の人生を振り返るような類のメモはほとんど無い偏った日記である。しかし、日記を読み返すと、まさに技術開発の成否を決めるのは人であることが痛切に実感できる。

このノートと日記を繰り返し、繰り返しプロジェクトの吟味に使った。別の考え方のほうがいいと思われたら、別の色でメモをとった。時間がたつとノートは蛍光ペンや、赤、青の文字でカラフルになっていった(それが天才のひらめきのように、その考え方が本質を突いて、変えずにすむというものではなく、繰り返し修正される考え方で行動してきた、凡人の証と写った)。

一度で深い本質に到達できなくても、ノートと日記で反復吟味をすると、多くの場合、視野が広がり俯瞰的にものが見えてくるし、方向性も見えてくるし、現場で苦労している若い技術者に、ヒントをあげることもできるし、元気の素をあげることも出来たと自己評価している。

ここまですると、勘違いや思い込みの部分も含まれてはいるものの、経営トップと対峙しても臆すること無い自分に生まれ変われたと振り返っている。もちろん、チームを構成するメンバーの能力の高さが一番効いているのであるが、凡人のリーダーにも勝つ機会が巡ってくることを体験できた。

凡人は非凡にはなれないかもしれないが、非凡の見せる油断をつけば非凡を相手にしても勝てることもあるのである。

ナノテクも、研究者の創り出すパルスだけでは社会の継続的発展には直接つながらない。
同時に技術者集団の非凡への挑戦がいるのである。


                                               篠原 紘一(2003.4.25)
                                                   
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