22. 出る杭を打つな

 出る杭に対して、周囲の反応は大きく2つに分かれる。一つはおおらかな人で、うまく出る杭を育てるサポートのそれであり、2番目はそこまでしなくてもと思ってしまうくらいに否定、制裁に回るか、無視行動を取るが、その目はエイリアンを見るような目であるというものである。

出る杭を打つなとの発言を、ノーベル賞受賞者などからも、時折聞くが、今のところサポートを受けることは極めて少ないというのが日本の風土の実情といって間違いない。それは日本人のルーツが農耕民族(騎馬民族だとの説を唱えた先生もおられるが)で、お天道様と相談しながら、仲良く暮らす遺伝子が定着してしまっているということだとすると風土を変えることは大いなる挑戦なのであろう。しかし、出る杭を打つ風土は、それはそれで平均値の高い集団を生み出し、それが強みとしていかされた日本の製造業が世界をリードしたのも、紛れも無い事実であるし、全面否定される特質でないのは言うまでも無い。

とはいえ、今日本の製造業はごく一部を除いて、自信を取り戻せずに苦しんでいる。そんな閉塞感を打ち破る鍵を握ると見られているのがナノテクノロジーによるもの作りの復権であるとの意見に反対を唱える気は無い。しかしこの見方はまだ本質に迫った深い議論があっての総括とは言い難い危うさが残されている気がする。

例えば、ナノテクノロジーやナノサイエンスに関する知の蓄積は確かに急速に増大しているが、具体論としてどこにナノテクノロジーをどう当てはめ使っていくかの活用技術の積み上げが十分なバランスで蓄積されてはいっていない気がするのである。リーディングエッジとかカッティングエッジといわれる言葉からも実感できるように、先端のビジネスの競争は身を粉にして戦うものが勝者になれるとは限らない激しい、知恵の出し合いの消耗戦なのである。情報産業では時計の針が6,7倍の速さで回るいわゆるドッグイヤーでの競争であり技術者は休まる暇も無いのに報われることが実感できるほどの産業規模の成長も見られない。

そんな中でも、力の差を見せ付けるケースがまれにある。それは、ほとんどの人が思いもよらないようなことを考え出す、創りだす、真の独創に裏打ちされたビジネスの独走である。そうは言っても厄介なのは独創性に優れたものであっても、それは成功をもたらすうえで必要条件でしかないということなのである。

独創につながる発想は平均から外れた発想である。そういった発想のできる人はいわゆる出る杭なのである。したがって出る杭を打つなというメッセージは、独創的な発想を大切にせよ、ブレーキを踏むなというメッセージなのである。

出る杭である人は、変人なのである。たしかに変人と付き合うのは楽なことではない。たとえこちらが変人であっても、変人の部類でなくても、冒頭に述べた出る杭をサポートする付き合い方は決して容易ではないように思う。狭い範囲でサポートできても、それをチームや組織や、社会にと広まっても、毅然として支持者であり続けるのは、ひとつの才能であるがエネルギーの要ることなのである。

それは、something differentを誉めてあげながら育てる親が圧倒的少数派であるために、集団の中で突出したことを認めることの出来る子供が育たないといういまの回り方が日本の風土の実態だからではなかろうか。
神戸の自宅の近くに「ラーンネットスクール」という出る杭を育てることを標榜したスクールがあり、マスコミでも何度か取り上げられもしている。これなどはほんの一握りのトライアルで波紋は局在化して終わりといった感じなのである。

日々の変化が小さいことで時代は変わっていないように錯覚するが、確実に変わってきているし、変わっていく。汗の換金率は下がった。知に価値の軸がどんどんシフトしているし、これからはもっと極端なシフトが起こるであろう。異なる発想を求め続けずして、未来がより豊に開けていくことを期待するのは虫のいい話になると思って間違いないと思っている。

自分が出る杭になれなければ、存在価値は薄らいでいく時代が遠からずやってくるとしたら、出る杭など打っていられるのだろうか?

                                                篠原 紘一(2003.1.24)
                                                   
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