21. ユビキタス社会になると

 最近では少し耳慣れないラテン語で「どこでもある」といった意味合いのユビキタスという言葉がネット社会の究極のイメージとして使われている。
電子機器メーカーで仕事をしていてもこの言葉は3年前くらいから使われ始めた程度で、まだナノテクノロジーほどの浸透度もない。ところがナノテクノロジーのエレクトロニクス分野における出口の集大成がユビキタス社会の実現に多大の貢献をするとの予測は確度が極めて高い話なのである。

特別な興味をもっていない人たちにとってすでにユビキタスといえる状況をイメージするのに有用な道具は携帯電話であろう。
いつまでたっても、デスクトップ型のパソコンに携帯電話が機能的に追いつくことは無いであろうが、かつてパソコンでしかやれなかったことが携帯電話でも出来るようになってきているのは実感できる。
「ナノテクノロジーがカーボンナノチューブを制御し単電子トランジスタからなる集積回路を実用化」、「信号発信、受信チップを1mm角に収めるナノテク」「マルチセンサーのワンチップ化に成功」などのニュースが紙面をにぎわすようになると、現在人を介しての作業がまだまだウエイトを占めているサービス産業までもがどんどん変質し始め、ユビキタス社会への実質的な移行が始まる。

量子暗号通信や量子コンピュータの革命的技術の導入を待たなくても、多くのナノテクノロジーが使われ、ユビキタス社会の構築は進展する。
ホストコンピュータは大量の個人情報をストックし、日常生活を最も経済的に快適に過ごすメニューを提案してくれる。パワーセーブモードは当たり前で、必要な時にコンピュータはすぐ機能する。コンピュータの利用はすべて簡便な音声入力で(ハンディキャップ対応もオプションでなく可能)行え、コンピュータは必要な冷蔵庫、電子レンジ、テレビ、ビデオ、エアコンなどの電子機器と情報のやり取りと機器の制御を最小電力で実行してくれる。スーパーへ行って買い物籠を持てば、簡易型のナビゲーターが本日の買い物のロケーションを表示してくれる。買い物を終えてゲートをクレジットカードで開ければあとは請求を受けて完結といった具合になる。こんな具合で家族の役割も変わっていく。
ゆとりが生まれ、起こりえない高度成長を追っかけなくても、さらに心豊かな生活が(もちろん、バイオ・ナノテクの貢献など別の切り口での展望もポジティブに作用することが大事になる)手に入ることで、政治にあれこれ要求する他者依存度も減っていくであろう。

ユビキタス社会の負の側面についても考えて備えていかなければならないが、筆者が期待するユビキタス社会の成熟にたいする期待について述べたい。それは真に創造が最も価値のあることであることに社会が深い理解を示し、教育が抜本的に変わるであろうということに対しての期待である。携帯電話に近い大きさの端末を子供でも簡単に使える。その端末は高速のネットで必要な検索をあっという間に実行してくれる。知識を増やすことは学校でなくても好奇心さえうまく育てればいかようにもなる。少なくとも参考書と必死で取り組むことの意味合いは失われていく。小学校から大学までの教育のあり方は抜本的に変わらざるを得なくなる。もっといえば答えのある問題は熱心にやる必要性は希薄になり、答えが一つとは限らない課題(答えはないかもしれない)に取り組む研究の基本を学ぶようにならざるを得なくなるであろう。

ユビキタスの効用の本質はここの創造性を尊重し、評価できるように社会が高度化していくことにありそうである。こういった文化を定着させてからなら米国を抜きさることをターゲットにした議論も空転しないだけの日本人の潜在能力だと信じている。

                                                篠原 紘一(2003.1.10)
                                                   
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