2. 「一灯を掲げて暗夜を行く、また楽しからずや

カメラとビデオを一体にしたアナログ方式の8ミリビデオは1984年に商品化された。
VHS,ベータからほぼ10年がたっていた。VHSとベータの戦いは使用されるカセットが違うことに代表されるように、お互いに使えない、いわゆる互換性のないフォーマット間の戦争であった。各社のビデオ関連の技術者たちは、競争原理が働くことはユーザーたちにとってメリットをもたらすが、その競争は業界で合意に達した統一規格ベースの商品企画競争であるべきとの反省にたち次世代のビデオを模索した。

私の勤務していた会社では、本社の技術部門がリードして、新たなコンセプトと実現化技術の議論が繰り返され据え置き型(今でも家庭に多くあるVHS)から、可搬出来るビデオまでカバーできることをターゲットに、記録時間、カセットサイズ、画質の目標が絞り込まれていった。その実現の鍵を握る要素技術の一つはこれまでなかった新しいタイプの蒸着テープの導入であった。


大胆な挑戦は蒸着テープの味見をしてそのポテンシャルの高さに驚いた技術者の後押しもあってトップダウンで決定され、スタートした。新しい規格は3社からの提案がなされ(1980年7月から1981年2月)それらをたたき台にした検討に世界から127社が参画して、初の世界統一規格8ミリビデオが誕生した。使用テープは合金粉末塗布型テープ(MPテープと呼ばれVHSテープが酸化鉄の粉を樹脂で固めて使うのに対して鉄の粉を用いている。)と蒸着テープの二本立てになった。蒸着テープを規格に採用してもらうには、短期間に時間を守って機器側から要望された改良を成し遂げていく極めてハードな開発と取り組むことであった。

最初の山は発表のXデーに美しい画をデモすることで、信号の欠けの少ない蒸着用のフィルムの開発も同時並行に進められていたことから(従来のビデオテープ用のフィルムは全く使い物にならなかったので)、試作テープを測って初めて良し悪しがわかる状態であったので名神高速をタクシーで何度も往復しフィルムを受け取りに行っては蒸着を繰り返した。

開発の初期はなぜか不思議なことにビギナーズラック的なことがよくあって、発表のX デーは乗り切った。そのときのデモは8ミリのベースになるビデオの提案であったが、同時に世界初の蒸着テープでの画像の記録の実用化への挑戦宣言でもあった。次の山は、業界のワーキンググループに配布する蒸着テープを用意することであった。他に供給できるメーカーが出てくるまでは孤軍奮闘しかなかった。決してことは順調ではなかった。

そんなある日、全社推進プロジェクトのリーダーの技術本部長がチームの労をねぎらってくれ、その席でこんな会話があった。

  H: 君は、一灯を掲げて暗夜を行く、また楽しからずやという言葉があるの知ってるか?
  A: いいえ、知りません。しかしいまの私に言わせれば、一灯も掲げず暗夜をゆく、
    また楽しからずやです。

  H: そんなことはあらへん。君は立派な一灯をもっとる。
  A: そらなんですかね?
  H: 君なあ、このテープ成功させる自信もってるやんか。その自信が一灯や。

その後くじけそうに何度もなったときにそのやり取りの場面が支えになった。チームの不屈の努力は時間はかかったが8ミリビデオのデジタルバージョンのDVC(家庭用デジタルビデオ)で花開いた。

いまナノテクノロジーーの国家戦略の遂行に少しでもお役に立てればとの立場で、あれこれ考えるが、研究で大きなパルスが出る期待と裏腹に、懸念されるのは人の育成である。日本のナノテクノロジーに日本の製造業の復権を賭けようというのなら逆境に立ち向かって、未踏の山を登りきれる胆力をもった自由人を時間がかかっても意図して育てていくことにどれだけ心を砕いて我慢して実践するかである。人が育つきっかけは一様ではない。しかし人が育たない環境はすぐ出来てしまう。

ナノテクノロジーも華やかに写るところで勝負がきまるのではなく、見えないところで勝負が決まる気がしてならない。

                                                篠原 紘一(2002.6.21)

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