104. 頂を目指す

ENIAC(1946年に、米国、ペンシルバニア大学で公開された真空管式のデジタルコンピューターの元祖)で開拓されたコンピュータロードはまだ先へと続いている。半導体技術、磁気テープやハードデイスクなどの磁気記録技術のたゆまざる進歩が支えて、地球シミュレータの愛称で呼ばれているスパコン{スーパーコンピュータ(ENIACは10進数、今の計算は、0,1で行われているなど単純比較はできないが)}は、計算能力がなんと100000000000倍にまで高速化されている(スパコンで1秒で答えが出る計算がENIACで行うと1万9千年あまりかかることになる)。これと類似しているようで、違う原理で演算がなされる異質の話は量子コンピュータであろう。このコンピュータはナノテクノロジーの飛躍によって底知れないインパクトがもたらされると期待されているホットな研究分野である。スパコンはNEC,IBM,クレイなどのプレイヤーが激しい先端競争を繰り広げている。先日、彼らが量子コンピュータをどう見ているのかについて興味深い記事が目に留まった。米国クレイの社長は「量子計算機は未来の技術だ。開発も手がけていない。」IBMの担当副社長は「いつ聞いても、実用化されるのは20年先だという。それでも研究は進めている。」筆者もどこかで聞いた話だと、それを見て思い出した。蒸着磁気テープ(MEテープ)という、量子計算とはまったく違うカテゴリーであるが、究極の磁気テープ、夢のテープと業界で位置づけられていたからか、よく似た話があったのである。
 MEテープの開発プロジェクトが始まったのは、家庭用ビデオ(VHS)が上市された1976年で、用いられた磁気テープは酸化鉄微粒子を樹脂でPETフィルム上に塗布固定したもので、当時の業界認識としては「将来は合金粉末塗布型、その先が金属薄膜型でこのテープが究極であろう」とされていた。だが、蒸着テープが金属薄膜型の解になるといった予測はまったくない時代であった。磁気テープは、アメリカの3M,ドイツのBASF,日本国内では、TDK,富士写真、日立マクセル、ソニーなどが製造販売していたが、筆者の所属した会社ではビデオやCカセットなどの機器事業を進めていたので、磁気テープ事業としては専門メーカからテープを買い付けてブランドを変えて販売しているだけであった。そんな状況下で、フィルムコンデンサーの真空蒸着技術を磁気テープ製造に展開できたら面白いのではとの発想が生まれ、5人のプロジェクトチームが組まれた。アルミニウムとコバルトの蒸着では、フィルムへの熱影響が比較にならず、磁気テープの開発は前進、後退の繰り返しであった。
それでも、比較的早い時期に、重要な要素のひとつである、磁気特性とりわけ保磁力の制御に進展があり、電子通信学会の磁気記録研究会で発表した。しかし、この発表を好意的に受け止めた会社は少なかった。
筆者を含め、発表者のほとんどが磁気記録の素人であったから(人脈がまだできていない状況であったので)冷たくあしらわれたといった印象であった。筆者が直接聞いたわけではないが、フィルムメーカとして、このテープをどのように位置づけて、どのように備えたらいいかの判断材料のひとつとするために、磁気テープメーカの技術のトップに「蒸着型の磁気テープは将来必要か?その時期は?」と繰り返し、尋ねると、1年後も、3年後も同じ答えだったという。「酸化鉄で10年、合金磁性粉で10年、その先でしょう」という答えだった。いつ聞いても20年というIBMの副社長の話と重なる話であった。「磁気テープは素人さんにできるようなものではない。ノウハウの塊だ。やれるものならやってみろ」といわれているようで、筆者も若く、闘争的にどんどんなっていき「庄内をMEテープのメッカにする!」「10年以内にビデオテープを事業にする!」(開発現場の庄内はコンデンサーの事業体がある地区で阪急宝塚線沿線に位置していた)を、大型プロジェクトになっていたチームメンバーとアルコールが入ると気勢を上げていた。 

1:メッカになったのか?

 プロジェクトがスタートして3ヶ月しか経たないときに松下幸之助が、突然開発現場にみえ、強い関心を持つとともに、事業化への期待を示したことから、磁気テープの開発としてはこれまでの常識と違った量産スケールの設備を投資できた。このことが、能登の地まで、素人集団の悪戦苦闘を大きく支えた。量産スケールの設備を開発に用いたということが幸いし、研究所レベルの技術ライセンスを欧米の磁気テープメーカに供与するといった事件が(筆者らにとってはそう思えた)起こったのである。しかも売り歩いたわけではなく、先方から買いに来たのである。3M,アンペックス(いずれもアメリカ)、BASF,アグファ(いずれもドイツ)の4社であった。一方日本のメーカは、自前主義で進めていったメーカと、MEテープはものにならないと攻撃的なキャンペーンを張って、開発しないメーカに分かれた。庄内に外国からテープメーカの技術者やマネージャーが次々と技術説明会や、実習のために訪れた。その局面だけ見ると庄内の開発現場がメッカになったような認識になる。しかし、外国のテープメーカにとって、MEテープの持つポテンシャルは脅威ではあるが、果たして信頼性などの困難な課題がクリアできるものかを可能な限り踏み込んで判断し、磁気テープの将来戦略を組み立てるために億の投資は高くは無いと判断したとみるのが妥当であろうと思うようになった。それぞれの会社で温度差はあったが、総じて、R&Dテーマとしてのウオッチ対象であって、事業化まで持っていこうとの意志は強いとは言えず、少しずつ庄内から足が遠ざかっていった。磁気記録は日本が磁気テープ技術で一大勢力となっていった一方で、ハードデイスク技術でアメリカがリーダーになっていったこともこの背景にあったのかもしれない。

:10年以内にビデオテープは?

 MEテープのプロジェクトは1976年にスタートした。量産規模の開発設備で推進できたことが幸いして、マイクロカセット用のMEテープとして「オングローム」の愛称をつけて小規模の事業をプロジェクト開始から3年半ほどではじめることができた。ビデオの次世代規格はVHS,ベータから10年後の1985年にいわゆる8ミリビデオとして、ビデオカメラ中心の規格として誕生することになったのであるが、マイクロカセットテープの事業引継ぎ後のビデオテープ開発評価の有力なツールはVHSやベータであったので、テープ化して放送を記録再生してみて、ああきれいだなあといったところから、抜け出せずターゲットを絞れない開発がしばらく続くことになった。それでもしばらくすると、社内に8ミリビデオにつながる開発の機運が高まって行った。そんなときに機器側の研究所でMEテープが評価され始め、そのポテンシャルの高さにファンが少しずつではあるが増えていった。その結果新しい規格の提案の武器のひとつに加えようとの流れができていって、「いつ聞いても20年先」と言われ、あしらわれてきたことを払拭する機会が思っていたより早く訪れたのである。大車輪で事業化準備に取り組んだ。米国のフィルムメーカが映像時代の到来に危機感を募らせてビデオカメラの新規事業参入を決めた。そこにMEテープもOEM(相手先ブランドでの事業)契約が決まって、米国にテープを出荷した。しかしこのテープが先方の受け入れ検査で不合格となるといった事態が起こった。従来技術とまったく異なる技術を用い、テープ構成も異なるビデオ用MEテープの事業化は多くの関係者の経験不足の表面化といった形の挫折となって関係するグループに影を落としてしまった。これで戦えると自信の持てるMEテープの原型は仕上がったが、会社の戦略もあって、本格的なMEテープ事業化はもう一周我慢することとなり、次の規格のデジタルビデオ(1995年開始)まで待つこととなった。プロジェクト開始から数えれば、約20年がたったことになる。20年が長いかどうかは、どの年代での20年間であったかにもよるだろうが、頂を目指そうという仕事で確たる足跡を残すにはそのくらいの時間は、長かったとは感じないくらいののめりこみがいるように思える。

量子コンピュータにも冷たい声があちこちから聞こえてくるかもしれない。出口論への傾斜が基礎研究にも及び始めてきた昨今、諸外国に比べて、日本の戦略が弱いというなら、外へ出ても勝負してほしい。苦しい時代もあろうが、ブレークするときが来ると、嘘のように視界がはれ、冷たかった人たちも応援団で旗を振るようになるものである。


                              篠原 紘一(2006.8.4)

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