10. 「第二のテレビ、ビデオが生まれるか」


 ナノテクノロジーは長年の人類の夢をかなえるキーになると見られている。

1959年の12月にカリフォルニア工科大学でリチャード・P・ファインマン教授が「There’s Plenty of Room at the Bottom」と題してナノメートルサイズの世界を予言している。その予言が先端において実現しつつあると捉えてる論調が目立つ。
戦後の私どもの暮らしを大きく変えた発明、技術は多く上げられるがここではテレビジョンと、ビデオとカラオケを取り上げて少し触れる。ナノの衝撃はこれらと同質のインパクトをもたらすものと、われわれ一人一人が自分のこととして感動し悩む未知との遭遇の部分とに分けられるのだろうが、未知との遭遇は別の機会に触れることにする。


さて、日本でテレビ放送が始まったのはファインマンの講演の6年前(1953)である。2月1日「JOAK-TV、こちらはNHK東京テレビジョンであります」が記念すべき第一声だったという。この年は公衆電話が街角に設置された年でもあり、先に免許をとったが実放送で出遅れた日本テレビが街角に置いた夢の箱「街頭テレビ」が世の中を大きく揺さぶった年でもある。テレビが多くの家庭に入りだしたのは5年後であった。それまでは近所に入ったテレビを時たま見せていただく状況で勉強に影響がでるほどではなかった。

まだVTRがなく全てが生放送であった。大げさに言えば力道山の空手チョップや巨人軍の活躍などが熱狂する国民生活の日常を支配したほどのインパクトがあったのである。子供の目が悪くなる、勉強しない、国民の総白痴化だの議論は絶えなかったが、いまや信念をもってテレビを遠ざけてるごくごく少数派を別にしてテレビなしの生活は考えも付かないのが実態である。

生放送の苦労が放送局の現場から消えていくきっかけは1956年アンペックス社が開発したVTRの導入であった。この技術は番組の多様化をもたらし、白黒画面のカラー化などがテレビの普及を加速した。放送局で使われるビデオは高価であったが画像、音声を同時に記録し復元する基本機能をぜひ家庭にとの発想は20年近い揺籃期を経て、ソニーのベータマックス(1975.4)日本ビクターのVHS(1976.9)の主導権争いが本格的ビデオ時代の幕開けとなった。高精度のメカニズムをベルトコンベアに載せて創ってしまう日本の製造技術力はこの世界の独走をもたらし、映画を中心としたソフトテープビジネスも成功し、いまやただではないが、ただ同然でタイムシフトを当然のこととして私達は日常生活で楽しんでいる。

世界市場相手とはいかないが、カラオケも暮らしにインパクトを与えた発明の一つである。ところがこの発明は特許取得されて無いことでも話題になった。特許をとっていればと“たられば”の計算をしてため息をつく人もいるが、神戸の盛り場でカラオケを思いついた井上大助さんはカラオケの爆発を素直に喜んでおられるという。飲み仲間との会話から生まれたカラオケは手拍子、ギター伴奏、ピアノ伴奏で歌っていた世界を変えた。

タイムが20世紀のアジアに大きな影響を与えた20人の一人に井上さんを選んだ。前二者は先端技術が支えて産んだ大ヒット商品であるが、カラオケは必ずしも先端技術に頼らずともの代表的な発想の勝利である。

今ユビキタス社会に向けて進化するネット社会にあってもテレビを超えるインパクトが胸躍らせる機会にどれだけこれから先であえるのだろうか。

社会とビジネスを激変させる上で貢献できるナノテクノロジーでありたいと願う。
技術の進化をとめないというだけでも凄いことだが、コンセプトにおいての大飛躍がなかなか見えてこない。それとは別に私たちの暮らしを豊に変えてきた、商品、サービスとは異質の超ド級のインパクトが生命科学のドメインにあるということは確かなのでは。だとすると、その研究開発成果を人類が正しく利用する上で、ナノテクノロジーと材料は大いなる貢献をし、その波及をはかり知れないものとしていく役割を担う重い責任があるのでは。


                                                篠原 紘一 (2002.8.16)

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