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野依良治の視点

(20)高級ブランド科学誌への「信仰」

2017年11月7日

 論文至上主義を懸念する筆者であるが、科学研究者は何のために論文を発表するのか。元来、精神の高揚を旨とし、実利には距離を置く学術共同体の中で、同好者たちが互いに思想、知見、意見を交換し合い、いわば自己表現する手段であった。加えて、時を経た現代では、社会が多大な公的財政支援による成果の証として論文発表を求めるためとされる。研究者にとっては評価対象ともなるが、さらに競争的に職業的地位と生活の糧の獲得、名誉栄達のための利己手段でもあることも否めない。その結果である過剰な論文偏重主義とそれを助長する科学論文出版の商業化が、アカデミアのみならず周辺社会にも深刻な歪みをもたらしている。

ブランド科学誌の威光

 「XX大学のYY教授によるこの研究成果は、最近Nature誌に発表されて高い評価を受けた非常に優れたものです」。昨今、学術賞選考会や研究費審査会でしばしば耳にするこの発言には、大きな違和感を覚える。むしろ絶対的な禁句ではないか。審査の過程と結果は研究社会に受容されるものでなければならないが、定められた目的に関し評価を委嘱された委員には、研究者の職歴や論文の外観ではなく、研究内容と質を自らの専門的見識で精査、説明して欲しい。研究の本質は国籍、所属機関、職位や論文誌に依存しないはずではないか。人については出自や資産、容姿ではなく、「人物本位」で評価する。街の建造物に例えれば、美しいタイル張りの斬新な外装に見とれることなく、構造の強靭性や内部の居住性、機能性を吟味することが求められる。

 読者が目にする科学論文は研究者と査読者、出版組織の共同作品である。科学研究は主に公的資金に支えられるが、成果発信の相当部分は民間が担う。伝統を誇る英国Nature誌は、現在ドイツ商業出版社Springerの傘下にある。広い科学分野を取り扱うが、進展する専門分野に特化した多くの姉妹誌をもつ。Cell誌は世界最大のオランダ出版社エルゼビアが発行する生物医学専門誌である。ちなみに、広く社会的影響力をもつScience誌は、2万人の会員を擁する米国の非営利団体AAASが発行するが、相当の収益事業という。

 科学技術政策や大学組織の経営方針は、断固として自らの理念に基づく主体性を堅持すべきである。しかし、いまや出版界は研究者の人事、研究費のみならず、いくつかの分野では科学の行方にまでに影響力をもつに至っている。最近の商業誌には、本来の出版使命を超えて自ら科学賞を設置する動きさえある。実際、シドニー・ブレナー(2002年ノーベル生理学医学賞受賞者)は、「学界はすでに科学誌の要求に応える成果を生むよう仕向けられており、制度的に腐敗しきっている」と断罪している。研究者の隷属はあってはならないはずである。

権威の根源は

 自らが、そして研究社会と周辺も追従してhigh profile誌と位置付けるこれらの論文誌が、科学の進歩へ大きく貢献してきたことは間違いない。果たしてこの種の有名ブランド誌への掲載が、研究者はさまざまな機会に科学的真価の基準を示す絶対的権威として機能する根拠は何だろうか。まずは、採択障壁の高さであり、それを律する特別の審査基準ではなかろうか。例えばNature誌の現在は採択率が5%以下。採択数が少ないからこそ、研究者はあえて希少性に挑む。

 投稿論文は担当編集者の責任のもと、見識あるとされる数名の外部専門家による匿名査読(peer review)に供される。採否の裁断には膨大な時間と労力がかかる。意見を受けて、しばしば修正作業ののち、編集者が最終判断する。通常はアカデミア有力者が編集に責任をもつが、Nature誌やScience誌においては社内の専属編集者を中心とする会議の判断が重要と聞く。この誇り高き編集者たちの広い視点での熟議は高く評価できるが、彼らの主観的判断は商業誌ゆえの基準に則ると推察され、一般学会誌のものとは異なっても不思議はない。

 決して霊験あらたかな、総じて水準の高いとされる科学誌を一方的に非難するつもりはない。むしろ、それをあたかも聖断と崇める研究社会の風潮こそを懸念するのである。

商業出版の功罪

 スポーツの祭典オリンピック大会と同様、出版活動へのビジネスの参入はグローバルな存在感を明確に高める。確かにブランド誌の表現力と広報影響力は群を抜き、通常の学会誌に比べて魅力的な場を提供する。その熱意と技量には敬意を表したく、また研究者が世界の一流舞台で、自己表現したいという心理も理解できる。しかし、科学誌は自己顕示の場では無く、あくまで科学の本質的内容の公表の場である。

 ブランド誌掲載が目的化すれば,真理追究を目指す研究者の規範は揺らぐ。中国では、Nature に掲載されれば最高16万5千ドル、米国科学アカデミー紀要(PNAS)なら3,513ドルの報奨金制度があるそうであるが、良質な研究のための適切な動機付けと言えるであろうか。

 さらに、近年は、社会的華やかさとは無縁の科学的発見について、マスメデイアも相乗りし「名声」をいたずらに増幅し、しばしば科学が大変革するような喧騒を呼び起こすことになる。本来そこに求められる相対化した総合的考察が省かれることは甚だ無責任である。

それでも学術か

 学術論文は、市場性ある派手な流行語を冠した押し付け商品ではなく、内省的で静謐なたたずまいに特徴があった。しかし、近年の風潮は大衆迎合と言わざるをえず極めて嘆かわしい。多くの論文が喧伝するように、本当にその成果は格段に革新的であろうか。しかし、近年の論文の題名や抄録にはnovel, amazing, innovative, creative, astonishing, groundbreaking, remarkableなどの眩い形容詞が並ぶ。この大げさな非科学的な語句は、30数年間で2%から17.5%に伸び、さらに増加、感染の傾向にある。言葉を選んだ著者自身のみならず掲載誌の倫理問題でもある。これらのおごった表現は外部者に対して、あたかもすべての重要課題は直ちに研究し尽くされるかのような印象を与えるが,もしこれが事実にもとる誇大宣伝ならば、早晩に科学社会は信頼性を失うであろう。

 学会の口頭発表の性格も変わったようである。我々は「良い研究をして、観察事実を正確に発表するように」と厳しく教育された。しかし最近は、聴衆は専門家だけに限られないので、内容の如何、道理の正しさよりも分かり易さ優先で、「人目をひくプレゼン(presentation)をするように」と学生指導するようである。なるほど、けばけばしい図面や派手な動画を使った恥じらいを欠く、羊頭狗肉の自己宣伝が目立つ。

高JIF論文誌が投げかける影

 高級ブランド誌の平均被引用数指標(英語では大げさにjournal impact factor(JIF)と称する)は大きい。いやJIFが高いからブランド誌とよばれる。しかし、元来Nature、Science両誌ともに高いJIF値を支える論文は全体の25%に過ぎない。最近、研究社会の反撃をうけているNature誌群は、JIF偏重を認めるものの、相変わらず自らの数値向上に余念がないように見受ける。

 高いJIFを記録する論文の大半が、昨今爆発的な発展を見せる生命科学、医療関連分野から生まれる。残念ながら、ここに虚偽を含む様々な不都合による研究論文の撤回の頻発が話題を呼ぶ結果となっている。有名なEMBOジャーナルによると、すでに公表済みの論文の写真図面の20%に改ざんの跡があるという。

 さらに驚くべきことは、不名誉な論文撤回のワースト10にはJournal of Biological Chemistryを筆頭に、Science、PNAS、Nature、Cellなど高いJIF値を誇る最有力誌が軒並み名を連ねていることである。一部の有力研究者たちの倫理の欠如は明白である。すでに地位を確立し、若者を導くはずのこのような研究者たちはいったい論文掲載に何を求めているのだろうか。

 もとより、最大の問題は著者たちの倫理の欠如にあるが、時には不正侵入に対する「門番」としての査読者、さらに瑕疵発見の技術的手立てを怠る出版社に大きな責任があろう。公的な監視組織の設置も事後には有効であろうが、事前の備えは万全だろうか。商業出版社には、多少の危険を犯しても、見栄えのする論文をライバル誌に奪われまいと、自らに囲い込む意図が働くのであろうか。加えて、自らの営業利益のために「Publish or Perish」「Impact or Perish」と論文至上主義をあおる出版社の責任はどう問われるべきか。ブランド誌よりも注目度が低い一般専門誌の実情はいかがであろうか。

 記述内容の再現性欠如は後続の研究展開を甚だしく妨げる結果となり、米国の国立アカデミー連合でも大きく問題視されている。実は医療研究論文の65%が再現できないとされる。また不適切な計画実験により、全研究費の約80%に相当する2,000億ドルの膨大な額が恒常的に浪費されているとの批判もある。2012年、米国のベンチャー企業Amgenの研究者は、がん研究の主要53論文を追試の結果、わずか6論文しか再現できないと問題提起して衝撃を与えた。アカデミア発の基礎科学論文の信頼性は企業の医療開発研究の基盤であるが、自ら不具合を認める学界そのものに追試の動機に乏しい。危機感をもつ米国では、再現性確認作業を請け負う企業もできているという。その経費負担まで含めた科学研究費ということなのか。この異常現象はいったい何を意味するのか。再現性欠如は生命科学研究特有の問題だろうか。

科学的価値の自己管理を

 近年の由々しき傾向は、まさに科学界に広がる精神汚染の結果である。背景に研究社会の競争過剰と評価システムの欠陥があるが、より広く大学教育の問題、現代社会の総合的なモラルの喪失の反映である。

 研究社会の自治の問題でもある。ブランド性の高い超有力誌だけが、科学者の心を支える「信仰の館」でないことだけは明らかである。科学界は、揺るぎない矜持をもって本来の価値を自己管理することこそが、社会的責任であると堅く信じる。

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