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野依良治の視点

(18)研究の評価、研究者の評価(その3) 研究は人間の営みそのものである

2017年9月4日

 人の営みであれば、形而上学的な洞察が不可欠である。数値が無意味というつもりはない。もとより、科学界が客観かつ正確な計量、数値解析を尊び、また世はデータ駆動の時代であることは間違いない。しかし、対象はあくまで明確な物理的単位、科学的意義をもつものに限定される。適正な評価を得るには、あらゆる意味ある指標(入手可能な、ではない)を総合すべきはずであるので、将来は、人工知能(AI)による徹底した総合的ご託宣を望む向きがいるかもしれない。しかしその時、果たして科学は精神高揚の営みであり続けるであろうか。多くの研究者の挙動が画一的に誘導され、AI判断におもねることになりはしまいか。

なぜ数量化を好むのか

 数値偏重が研究評価における問題の原点ともいえるが、その病理の根底には、現世代の多数決民主主義、なぜか意味を問うことなく、一票でも多い方が正しいとの信仰がある。わが国の悪名高い入学試験の呪縛のまん延が、主観を疎み、一点刻み、総点の0.1%程度に過ぎない無効数字であっても、客観比較こそが最も公平とする価値観を醸成している。

 18歳時の入試勝者たちは、総じてスコア化を好み、この「厳密かつ公正な」仕分け判定で、人生が決定、安定した地位を得たとの勘違いさえする大学入試が青年たちの将来性を占う仕組みであれば、1、2割の違いがあってもほぼ同等であろう。かつての勝者の集団たる教員組織は後継者の選抜に多大のエネルギーを傾注するが、その分解能はいかほどのものか。もっと人事専門家の力を借りて教科以外の要素を十分勘案すべきであろうが、あるいは「松竹梅」と格付けした上で、「竹」をくじ引きして合否決定してはどうか。悲しいかな、100点満点と0点の間の規格化された、あるいは秀才にとっては100点と80点位の狭い評価空間を右往左往する習性のために、世界の桁違いの存在、ましてや「負の存在」に出合う機会に乏しく、価値の相対化能力を喪失する結果となっている。

 この傲慢が、長じて科学社会における他を顧みない「勝者総取り(winner-takes-all)」文化を醸成することにもなる。競争的資金の獲得はたまさか幸運であっても、最高の研究を意味するとは限らない。過去の採択課題を追跡すれば明白である。米国ではトップ20%を選び、あとはくじ引きにする方が合理的との主張もある。

研究者に降り掛かる災難

 研究分野が拡大する中で、引用件数も急速に増大しているが、また研究分野の規模や性質によって数値は大きく異なるも明らかである。私は2000年代の初めまで有機化学の研究に携わっていたが、現役から身を引いたのちも、クラリベイト・アナリティック社のWeb of Scienceは本人に断りもなく、時々刻々過去の行為を計測、公開し続ける。2017年8月の同社の統計によると、私は487報の論文を書き、総被引用数は50,705回、1論文あたりの被引用数は104回、1,000回以上の論文は5編で、h指標は116(116回以上引用された論文が116報あるとの意味)とのことである。これは研究者として蓄えた資産を銀行に預けて、利子を蓄積していくようなものであり、元本は一定、総利子額は増えていく。この果てしなき機械的追跡、執拗なプライバシーの監視、公開は数多ある職業の中で研究者だけが被る災難であり、不快の念をもつ人は少なくない。

 内容についてあえて振り返れば、正に凡人の営みである。確かに良質の論文も含まれるが、粗製乱造の極みで、著作、論文リストのうち、おそらく半数ほどはほとんど意味がなく、いわば「研究廃棄物」と言われても仕方がない。あまりに断片的に過ぎ、多くは「論文」に値しない。また、初期のものには、自らの稚拙さのみならず、その時代の測定機器など技術水準の問題もあり、記述を修正すべきものもある。若気の至り、未熟な思い込み、時々の衝動に駆られて実験し、一応新しい事実だからと発表した結果であり、恥じ入るばかりである。それでもコンピュータはたゆまず集計に励み、数値を積算していくのである。

 もっと謙虚に質の維持に配慮すべきであり、これでいいわけがない。自己中心の恣意的な発表は学会や査読者にも多大な迷惑、負担をかけるからで、科学の進展への貢献は乏しく、むしろ科学界の名誉を損じるものでもあった。各方面から頂いた貴重な研究費を浪費したことも、遅きに失するが詫びなければならない。研究者人口、研究費が増大した現代では、自らの意図や力量だけでなく、様々な外的要素が関わるため、研究廃棄物生産は「負の外部効果」をもたらすことにもなる。

研究の営みは直線でありえない

 私自身は鈍感なせいか、評価に圧迫感をもった経験がない。私の研究は、一点集中ではなく、興味分散型であった。今様の制度であれば「焦点が明確でないので、もう一度計画を練り直してこい」と厳しいであろうが、おおらかな時代で、先輩たちから激励を受け、文部省、科学技術庁(当時の新技術開発事業団)、産業界からも、温かい財政支援を得た。様々に手を広げ、決してノーベル化学賞の対象となった「不斉水素化反応の研究」がすべてではない。

 ところが近年、行政は何の目的か、おそらく「自己責任説明」担保のためと推察するが、獲得研究費(しばしば使途目的同定が不適切)や論文引用数値の経年変化をもとに、特定個人の研究活動の消長を測り、研究費配分施策の合理性を論じる。社会が受容しやすいとして「客観的データ」を偏重し、あえて研究の経緯を唯一把握する研究者自身との直接対話を避けようとしているようにさえ見える。まだ評価手法の研究中というのであろうが、この無神経な行為と経緯実態の乖離が、しばしば研究者の誇りを損なう。研究の意義は時代背景や人間社会とは隔絶した公的研究費投入や論文成果だけでは理解できない。創造への動機、伏線、流れを多次元的に理解しないために実態把握を歪め、むしろ研究現場、若者たちへ誤ったメッセージを発することになる。

創造者たちへの寛容

 行政はなぜか自らがつくった研究体制の有効性を顧みることなく、様々な関係職種の中から研究者だけ、また論文成果に限って評価対象とするのだろうか。是非彼らの立場に立ち、誠意をもってその意図をくみ取るべきである。特に若い人の置かれた状況には特段の配慮が必要である。創造の担い手の多くはか弱い人間であり、寛容と忍耐をもって育てなければならない。

 人の営みに評価は容易でない。科学技術の持続的発展を望むならば、個々の研究者ではなく、創造を育む教育研究環境の整備こそが評価対象であろう。極めて個性的な「独創」もあるが、多くの研究成果は多様な同僚との「共創」の結果である。また見識ある先人の訓えに導かれることも少なくない。私自身長い研究人生の中で、多くの碩学に出会ったことは幸せである。知の府を先導する大学教授は優れた研究者、合わせて立派な教育者である「学者」であって欲しい。自分のことは棚に上げた上で、近年は素晴らしい研究をする人はいても、若者が仰ぎ見る畏敬の対象がまれになったことが、寂しい限りである。世界的傾向であり、その根源を深く考えてみる必要がある。

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