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野依良治の視点

(8) 研究教育費配分の格差

2017年1月25日

 先のコラムで述べた不合理な研究教育体制が、わが国全体の科学技術の発展を阻んでいる。さらに具体的には、人材、資金、共通基盤、情報などの不足ないし偏在が、主たる阻害要因である。昨今は、とくに研究資金の不足が研究活動の不振の原因とされるが、実は資金の質と配分に問題があり、より根が深いと感じている。研究活動と教育の整合性、さらに国内外の社会連携のあり方にも再考の余地がある。

研究投資額

 わが国の研究投資総額は対GDP比3.76%で、韓国の4.15%、イスラエルの4.09%には及ばないものの、ドイツの2.83%や米国の2.74%に比べて、相当に高い。問題は民間の投資負担額が71%以上で、公的資金が18%程度と低いことである。今後、国費投入の拡大が望まれるが、費用対効果の最大化を目指すためには、両者を適切に混合すべきである。現在大学の総研究資金に対する民間資金の投入はわずか2.5%で、米国の4.8%やドイツの14%と比較して極めて低く、産学の双方に課題が残る。

 逼迫する国家財政の中で、科学技術関係予算の伸びの低さは、目を覆うものがある。2003年から2013年における中国の伸長が555%、ドイツが48%、米国が15%であるのに比し、わが国はわずか0.3%に過ぎず、これでは低迷やむなしとの意見もある。しかし、現状でも公的資金の絶対額は、370億ドルに達し、米国の1,325億ドル、中国の998億ドルには及ばないまでも、好調のドイツ(337億ドル)をしのぎ、フランス(199億ドル)、英国(156億ドル)に比べれば、遥かに大きい。しかし、なぜ論文生産量が世界5位に過ぎず、さらに高被引用論文数については、これらの有力国のみならず、さらに少人口、低投資額のカナダ、オーストラリア、イタリーの後塵を拝するのか。

 わが国の研究者が、他国に劣らず有能かつ勤勉であると仮定するならば、残念ながら、研究費の使用が格段に非効率であることになる。もはや言い逃れを止めて、状況に至る原因を真摯に再考し、不具合は直ちに改めねばならない。

研究費配分の集中化

 文部科学省の年度予算獲得にむけての長年の努力には頭が下がる。しかし研究者の多様性や流動性の観点からみると、残念ながら、本省と資金配分機関による貴重な資源の配分は合理的とは言い難い。わが国には86の国立大学、91の公立大学、600の私立大学が存在するが、科学研究費補助金(科研費)を始めとする多くの競争的研究資金の約90%を10校程度のみで受けている。また、この間の格差も峻厳で、例えば科研費において10位の慶應義塾大学の獲得額は、首位東京大学の16%に止まる(教員一人当たりの金額も約2倍の開きがある)。この首位と10位の落差は、ドイツの79%、米国の74%、さらに格差国と言われる英国の40%に比べても、あまりに大きい。

 現在の富裕大学だけで国際的に競争できるわけがない。行政と現場の意識の有無に関わらず、硬直化した配分プロセスが後年、状況の低迷をもたらしてきたことは、文科省の論文成果分析結果からも明らかである。この研究費偏在が、本来の大学の実力、研究者の構想力、遂行能力の違いを適切に反映しているとは思えない。

特徴ある独立した若手研究者の支援

 競争的研究費の種目、申請の採否の仕組みと提案の評価基準は、果たして適正だろうか。機械的な平等主義を唱えるつもりは全くないが、「形式的公正審査」による過当競争にも与しない。有為の若手研究者に対する支援を拡大すべきであり、評価の視点も画一であっていいはずがない。年配の識者たちの現時点の価値観に基づく「選択と集中」は、不確定性極まりない科学の将来を約束するものではない。まだ無名の若者たちが未来の設計者である。夢多き若者を信じる器量が必要ではないか。彼らは同世代のアジアの人々と共に道を切り開かねばならない。独立した若手研究者育成のあり方については、元AAAS会長のアリス・ファン博士の助言(Science , 329, 1471 (2010))も参考にしてはどうか。

 いかなる理由であれ、競争的資金の異常な局在、格差の定着は、そのまま国内の若手人材の固定化につながり、また外国籍の研究者導入を阻む結果となる。新たな国立大学3類型化(注:コラム1参照)の導入を機に、仕組みを再考すべきである。

 近年の日本は、世界が注目するあらゆる新興科学分野、競争的技術分野において必要人材が用意されていない。この状況が、急速な社会環境の変化への対応の遅れを招く結果となっている。一言で言えば、人材の新陳代謝、多様性の欠如が原因である。大学の人事に事態打開の創意工夫が必要であるが、行政にも、明日を担う若者の育成に、実効ある施策を求めたい。

研究費か、実験教育費か

 大学院の学生たちの深刻な経済負担の問題については先に述べた(コラム4)。一方で、大学院組織における教育と、教員個人の研究に関わる経費配分にも、大きな乖離が見て取れる。端的には、長年にわたる施策が、とかく学生の立場に立つ教育環境よりも、教員にとっての研究環境の維持、向上に資してきた経緯が見て取れる。両者はトレードオフの関係にあってはならない。

 国民の研究への期待は、多数の平凡な成果の生産ではなくて、まれなる卓越した成果の創出にある。このための資金配分は、正当な評価を踏まえた上で、必然的に競争的にならざるを得ない。

 他方、社会は高等教育に対して、多くの若者に生きる力を与え、世の中が求める良質の人材を輩出するよう求める。教育資金の配分は、未来に備える学生たちの意向を汲み取り、彼らの成長にわが国の発展の先導力を託すべくなさればならない。実際、未来を担う学生の関心は驚くほど多岐にわたる。学術の継続性、多様性の維持の観点からも、教育における近視眼的な成果主義は避けるべきである。しかしながら、積年のこの意識欠落が、分野の細分化、固定化、さらに大学格差を助長し、わが国の高等教育劣化、人材供給不全の主要因となっている。

 国立大学の大学院学生の多くは、教育環境をつぶさに知ることなく入学するが、等しく年間55万円の授業料を納めて研さんを積み、世の中に出ていく。従って、彼らはすべて一定水準の教育環境を享受する権利をもつはずであり、この基本的権利は、大学の類型、指導教官の年齢、性別、国籍、専門分野の相違(基礎と応用、流行か否かなどを含め)や研究能力、業績評価により損なわれてはならない。

 大学制度が長年にわたり、この基本的保障義務を果たして来なかったことは、極めて遺憾である。個々の教員の課題限定的な「研究」を支える科研費が、大学が組織的に担うべき「実験教育」の主たる経費に当てられていることに、納得できないでいる。

適正な教育評価を

 現実に、科研費の新規採択率は20%台である。これを受領しない指導者が多数を占める中で、大学院学生一人当たり年間50〜100万円程度の実験教育費を支弁するためには、かつての「基盤校費」に相当する予算措置が必要であろう。いったい研究費も教育費も付与されない教員に課される日常主務は何か。加えて、研究費を受けない教員にまで研究成果の生産を課し、評価することは、理不尽ではないか。むしろ、専心する教育活動、ないしは多様な社会貢献の評価をもって処遇し、士気向上を図るべきである。これは多くの国民の負託でもあろう。


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