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概要

JST20周年記念誌JapanWay0203

第1部│展望編かし、当初は話を持ち込まれた科学技術庁(当時)内でも、賛成者は科学技術振興局の局長だった宮本二郎氏や課長だった長柄喜一郎氏(後に理化学研究所副理事長、宇宙開発委員)らごく少数だった。大蔵省(当時)との予算交渉以前に文部省、通商産業省(当時)との折衝が難航し、一時は頓挫寸前まで追い詰められた。中川一郎科学技術庁長官と渡辺美智雄大蔵相による暮れの大臣折衝で、研究調整費の中に6億円を付けるという綱渡りの末の決着により、何とか日の目を見る。1991年にJRDC専務理事に就任以来、ERATOの発展に力を入れた川崎雅弘(JST発足後も専務理事、2000年1月~2001年7月理事長)は、次のように話している。「JRDCでは千葉玄彌、科学技術庁では当時、科学技術振興局長だった宮本二郎氏の非常な努力によって実現した」「JSTのDNAは千葉玄彌」(沖中村守孝初代理事長村憲樹、2001年7月~2007年9月理事長、現特別顧問)とも評される千葉は、米国の大学で学んだ経歴を持ち、たまたま帰国したときに会った初代JRDC理事長・井上春成に口説かれて、発足直後のJRDC職員となる。常勤役員1人、職員10数人で発足したJRDCの事業である委託開発の意義を、大学などの研究者に説明することから始めるという大変な苦労をした。何とか委託開発事業も軌道に乗りかけてきたときに降りかかってきたのが、「土光臨調」の名で知られる「第2次臨時行政調査会」による事業団統廃合の動きである。統廃合阻止のため千葉がのるかそるかの試みとして考え付いたのが、科学研究費補助金(科研費)と全く異なる新たな基礎研究支援制度の創設だった。ERATOに予算が付いたことで、統廃合の対象となることはとりあえず見送りとなり、初年度の総括責任者に、林主税日本真空技術会長、増本健東北大学教授、緒方直哉上智大学教授、西澤潤一東北大学教授の4人が選ばれる。「林超微粒子プロジェクト」「増本特殊構造物質プロジェクト」「緒方ファインポリマープロジェクト」「西澤完全結晶プロジェクト」と指導者の名前の後に研究目的が続くプロジェクト名の付け方は、発足時から現在まで変わらない。川崎の言葉を続けよう。「組織は人を育て、人に投資するものであるべきだ、との考えに立脚した研究支援制度といえる。前例のない事業だったが、前川リポートが口火となった構造改革の一環という位置付けだったため、財政当局も納得した」。箱物より中身、それも人を重視する、という考え方は、以後のJSTの活動を貫く重要なスピリットとなる。ERATOがその後、実質的にも期待どおりの成果を上げたことは、理化学研究所理事長(1993~1998年)当時の有馬朗人氏(元文部相、元科学技術庁長官、元東京大学総長、現JST中国総合研究交流センター長)が次のように尋ねたというエピソードからもうかがえる。「ERATOに参加している研究者が被引用度の高い論文を量産するのはなぜか。研究者たちの海外出張だけでも、相当な金がかかるのでは」。この問い掛けに対する川崎の答えは、「特段のことはしていない。海外への出張なども総括責任者に任せている。お金もたくさん使ってくださいと言うと、不思議なものでかえってあまり使わない」。当初、総括責任者に大20