ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play

概要

JST20周年記念誌JapanWay0203

第1章│社会の変化と共に広がったJSTの役割■基礎研究推進の方法論を一変させたERATO誕生JSTが科学技術振興事業団として設立された1996(平成8)年は、バブル景気が終わり、後年「失われた20年」といわれた長い景気後退が始まった時期に当たる。エズラ・ボーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』が発行されたのは1979年。日本経済の黄金期といわれた1980年代に入ると、日本工業製品の輸出攻勢に圧倒されていた米国で、日本に対する逆風が吹き荒れる。後年、党の大統領候補の指名争いに加わった大物議員が、ハンマーで日本車をたたき壊す映像が大々的に放映されることさえ起きたのである。巨額の対米貿易黒字に起因する日米貿易摩擦に対して、日本側が取った数々の対応策の指針となったのが、中曽根康弘首相の私的諮問機関である「国際協調のための経済構造調整研究会」がまとめた報告書だった。座長を務めた前川春雄日本銀行総裁の名を取って「前川リポート」と呼ばれる。経済収支の不均衡を是正し、国民生活の向上を図ることを経済政策の目標に掲げた前川リポートの示す方向に向け、公共投資を中心とする財政支出の拡大や、民間投資を促す規制緩和など、内需の拡大、産業構造の転換、輸入の推進・市場開放政策が実行に移された。JSTにも影響を与えた貿易不均衡是正策の一つに、一定規模以上の公的なシステム、装置・機器は国際調達にするという制度導入があめの公示手続きに少なからぬ時間と手間を強いられる実態は、今なお続く。JSTに、より大きな影響を与えたものに、日本たたきの一つとして米国で高まった「基礎研究ただ乗り」という主張がある。日本は、外国で生み出された基礎研究成果を基に開発した技術で製品を作り、海外に輸出して、大もうけしているという批判だ。確かに1980年代に米国の首都ワシントン郊外にある米国立衛生研究所(NIH)では、400人ほどの日本人研究者が研究生活を送っていた。今でこそ、外国から研究者を呼び寄せることは自国の技術基盤の向上、ひいては国力の強化につながるという見方が一般的だが、当時はこれも米国の国費を使って日本人研究者を養成している、といった分かりやすい攻撃材料に使われた。「基礎研究ただ乗り」批判に対し、日本にとっても科学技術政策を考え直すよい機会と捉えた人たちによって、日本の科学技術、学術政策の歴史においても特筆されるような新しい事業が誕生した。JRDCで1981年にスタートした「創造科学技術推進事業(ERATO)」である。それまでの基礎研究費助成制度は、文部省(当時)所管の科学研究費補助金(科研費)があるのみであった。指導的立場にある研究者で構成する学術審議会が実質的に研究費の配分権限を持ち、それぞれの分野ごとに持ち回りで審査員を務める研究者が、研究費の配分先を決めるという仕組みだ。対象とする研究分野は広く独創的・先駆的研究を発展させることが特徴で、将来、新しい技術開発につながるかどうかといった観点は、あまり重視されなかった。独創性のある研究で、新しい技術の芽を生み出せるような力を持つ研究者を指導者(総括責任者)に据え、5年間の期間中に破格の研究費を投入する。指導者には研究グループの人員構成から研究の進め方まで、大幅な権限を与える。このような日本では前例のないERATOのアイデア、枠組みを考え出したのは、JRDCである。しる。義務付けられた国際調達のた本部ビル(埼玉県川口市)東京本部ビル(東京都千代田区)19